直子の部屋

笑ったり泣いたり踊ったり暴れたり推し事したり。

慶喜公ゆかりの地を小和田哲男先生がご案内 in 静岡

体のあちこちにガタがくるわ、家電が壊れるわと日常が面白いほど壊れております。今一番不便なのが肩まわりの痛み。ちょっとしたことで激痛でキツイ。しばらく続くから対処療法しかできないのもしんどい。湿布かぶれる。着替え一苦労。同じ姿勢でいるのもだめ、動いては痛い。集中力欠如。寒さ戻らないで。そんな調子。やれやれ。

静岡にあった寄席まわりの話を書きたい気持ちを引きずりつつ、読んだり調べたりがやっと。狭い範囲で嫌なことと痛みを忘れる楽しみばかり漁ってます。

そんな中で見つけた動画をご紹介。静岡大学名誉教授の小和田哲男先生。
歴史物の番組にもよく登場される方で、NHK大河ドラマ時代考証でお馴染みといえばわかるでしょうか。
その小和田先生が静岡の徳川慶喜公ゆかりの地を案内してくださっています。

静岡「駿府」街中案内 - YouTube

youtu.be

昨年四苦八苦して調べた場所がいくつも出てきて楽しい内容です。
途中の説明がとてもわかりやすい。新紙幣発行も近づいてきた渋沢栄一と静岡の関わりも改めて勉強になる。

第34歩兵連隊の誘致準備で圓朝が静岡にやって来た明治29年頃から埋め立てられたという内堀のことも、よくわかっていなかった。ようやく「御堀」と呼んでいたのが「中堀」や「外堀」の一部で、駿府公園と呼んでいた場所に「内堀」が埋まっていたのを認識した。

 

entsunagi705.hatenablog.com

生まれ育った土地でも知らないことばかりだ、と思い始めたのは学生時代が終わる頃。だから駿府城跡の遺構は子供の頃には興味も薄かった。天守閣もないしイメージが湧きにくかった。

子供時代に新聞で見た駿府城の整備計画が先のこと過ぎて想像がつかなかったのが懐かしい。当時はようやく「巽櫓」復元に着手ぐらいだった。今の方が俄然興味があるので小和田先生の解説が楽しい。

おまけ

子供時代に見た計画の中にあったかわからないが、駿府城跡周辺は発掘作業や復元、観光で見直されているらしい。中堀にできた「葵舟」も一度乗ってみたいので、静岡市葵区のPRキャラクターあおいくんと昇太師匠の紹介動画を置いておきますね。
あおいくんちゃんねるは1.5倍速再生でいいと思います(笑)

昇太さん熱弁!駿府城公園「葵舟」の“乗らなきゃ損な話“ - YouTube

youtu.be

「あおいくん ちゃんねる」葵舟と歴史博物館編 前編 - YouTube

youtu.be

 

寄席で聴ける圓朝伝を望むのは贅沢かしら

2024年3月中席(11日から20日まで)上野鈴本演芸場の昼席にて主任(トリ)を勤められる三遊亭志う歌師匠。期間限定で「新版 大圓朝一代記」を公開されています。
寄席の高座ではなかなか見ることができない大作ですのでぜひ。

三遊亭志う歌「新版 大圓朝一代記」 - YouTube

youtu.be

私は以前圓朝祭の高座で拝見しました。今回の動画は新版ということなので更に進化しているのでしょう!当時から圓朝師匠に関心はあったので楽しみに行って大満足の記憶。とはいっても今よりずっと偉人としての知識はなかった。

今では熟読ならぬ熟聴。途中で、思わず書籍の方の「新版 三遊亭円朝」で年表チェックしたりして。客席ではしない動画の楽しみ方だけど、客席だったら嫌な客だな。色気を出して緋縮緬長襦袢をチラつかせる時代と大圓朝と呼ばれる時代の境目と江戸明治の境目をもう一回確認したくなった。

圓朝一代記で王道を聴くと、それにしても同じ圓朝の話でも自由研究のテーマは外伝も外伝だなあと改めて思うのでした。

entsunagi705.hatenablog.com

志う歌師匠、寄席のトリ宣伝でこの動画を出すということは、まさかこの大圓朝一代記を寄席でかけるのか!?上下に分けるの?続き物にするの?とか妄想したけどそれはないか。寄席のトリで聴くなら大圓朝に成る前の圓朝のしくじり話か政談を一代記よりもやや軽めに聴きたい。粗忽圓朝とかないかな?ないか。
途中に出てくる寄席を降りる話も、昭和の脱退話と結構似ていると思うんだよな。ご本人というより一門の芸人らしさというか。

とはいえ圓朝は今や大圓朝のイメージが大きい。
歌舞伎の如くちょっと名前を変えたりしてもいいからやって欲しい。
個人的希望は差し置いて、志う歌師匠の圓朝モノは今後も楽しみです。

 

兼好師匠推し活カレンダー更新しました

自家調査している兼好師匠の落語会情報を更新しました。

推し師匠3月のスケジュール

f:id:entsunagi705:20240228195112j:image

東京かわら版が届くと翌月の推し活カレンダーのチェックと仕上げ。
推し活に定期購読が加わってからそんなルーティンになりました。
3月号の表紙は題字がついに横文字!新真打のフレッシュ感が出ています。
正楽師匠、藤娘も藤の枝も素晴らしい。

3月の推し活カレンダーはこんな様子です。
茶色が落語会、配信やメディア関連の予定で黄色がチケット一般発売日。
来月も関東圏だけでなく滋賀の守山、大分の豊後大野、山形の山辺町、仙台、愛媛の松山と各地に登場するご予定ですね!

個別の詳細はファンサイトからご覧ください。

三遊亭兼好師匠ファンサイト|自家調査の兼好師匠 スケジュールカレンダー
 ※自家調査ですので、すべての情報を網羅していない可能性がありますのでご了承ください

最近更新したもので 3/24かまくら落語会は老舗の会なのだそうです。
見てみると確かに次は第257回ですね!
応募が多いと抽選になると聞きましたが本当なのでしょうか。
まだまだ知らない老舗はたくさんあります。

5月は24日~26日に「さっぽろ落語まつり」が今年も開催されます。
円楽師匠が作った落語祭りは博多も札幌も続いて嬉しいですね。
札幌の落語会は未体験なので行ってみたいです。
日程詳細も出たようで、地元の方も旅行がてら行かれる方も要チェックです。

f:id:entsunagi705:20240228193554j:image 

そして!兼好師匠主催の『人形町噺し問屋』
3/1の12時から4月・5月分の予約申込が始まります。
超おすすめ会ながら早めに予約でいっぱいになることが予想されるので
気になる方はぜひ一度お申込みチャレンジされてみてください。

近く楽しみにしているのは3/2(土)夜の横浜にぎわい座
大佛次郎没後50年特別企画「猫尽くし 再び 名作落語の夕べ」』

猫尽くしの演目の中で兼好師匠の「猫餅」は聴ける機会があまりありません。
2/14の二人会『西のかい枝 東の兼好』でも珍しい演目が聴けましたが、演者さん曰く「珍しいということは面白くない」場合があるそうなので当日のお楽しみです。

2月の思い出

2月に行った落語会はバレンタインデー開催だったり、そば打ち体験を兼ねていたりと推し師匠のモテ振りを眺められるファン交流があってニヤニヤ月間でした。
それから1月からずっと気になっていたタイトなかけもち日程があって、当日勝手に心配してハラハラしたり、予想通りの展開だけどご無事でなによりと安堵したり。推し活でスケジュールをよく見る弊害です。2月はキャッキャと親しまれる師匠を存分に拝見したので、いつも笑顔で楽しそうな姿が大きな魅力なのですが、そろそろビシッと格好いい兼好師匠の高座に遭遇したい気分です。

f:id:entsunagi705:20240228193813j:image
そば打ち落語会でちゃっかりサインをいただきました。
2月23日(富士山の日)開催で東京かわら版さんの富士山手ぬぐいに日付つき…ウレシイ^^
会津坂下町産の兼好米(コシヒカリ)もお味噌もお蕎麦も美味です♪

おまけ

先日学生時代の恩師が「江戸たいとう学」という台東区のイベントで講演をされると知って参加してきました。

江戸たいとう 

たいとう文化マルシェ

「江戸たいとう学」は多彩な講師陣で講演イベントをされているようです。
台東区と聞いてもあまりピンときませんが、浅草、上野、根津、谷中、吉原、隅田川と落語でお馴染みの場所がわんさかある場所。
「江戸の絵巻を読み解く」というテーマの講演は学生向けのような盛り沢山の講義でしたが(笑)中でも『江戸風俗図巻』の上野・浅草の図はさながら観光ガイド動画の様。
上野広小路から寛永寺根本中堂にいたる花見の情景と隅田川の両国橋から蔵前通りを通り浅草寺境内までを道すがら案内してもらいながら歩くような楽しさでした。たくさんのお店やにぎわい、道の途中に小間物屋さんや六十六部、願人坊主がいたり若い衆が喧嘩していたりと落語が過ります。絵だけ見ても名所や有名なお店を見逃すので、今回のように専門家から聞きながら絵巻を見せてもらえると落語がまた楽しく聴けそうです。

講演の後に先生とお話しすると、自由研究で気になっていたことに進展の兆しも!
昨年末から1月に比べると推し活量はグンとペースダウンさせていたり、自由研究も続きが書けず、体にガタが来て気分はやや下向きだったのですが、そこは兼好師匠よりも前から私の師匠だった恩師はさすが。落語の高座とは違いますが、とても元気がもらえるよき時間でした。

画像映えではアニメや動画に叶わないかもしれませんが、江戸時代の絵巻も上野や浅草など落語にリンクするような題材のものは落語目線で見ると楽しいかもしれません。町の人やお店がたくさん描かれているのがおすすめです。

落語会チラシ推し活実験 & つれづれ

自由研究ネタが続きましたが、今日は推し活の話。

以前好きな師匠を「推し」と呼ぶか?という記事を書いたのですが、以外と推し活の記事を見に来てくれる方がいるみたいです。

entsunagi705.hatenablog.com

でも正直推し活のことをあまり書いてないですよね。

なんか、すいません。

「推し」と書いているのは、過去の情報発信で誤解されることがあったのも影響してるんですよね、多分。過去というか、現在もSNSなどで「三遊亭兼好師匠の情報」としていることで、非公式のものと書いていても師匠に話しかけている感じの方がいて、割と真面目なので、「誤解です」て返しています。そんなこともありやたら師匠の名前を出すのはどうかということはあります。字面もガッチリしてますしね?

でも推し活情報をお知らせしたくないわけではないのです。

それでSNSで昔やっていた落語会情報の発信みたいなことで、自由研究みたいに時間がかかり過ぎなくて、自分も楽しくできることを考えました。

それは「チラシ紹介」です。

以前から推し活ファンサイトでチラシ画像をコレクションしていますが、チラシというのは落語会の情報が出ると同時にネットで出回ることはあまりありません。
推し活カレンダーに詳細を書いて、チケットの発売日までわかっていても、見栄えがするチラシを見つけ損ねることはよくあります。なので「見つけた!」と思ったら見てほしいんですよね。

早速実験してみました。

はてなブログでリンクをつけて主催者や会場の公式サイトから引用するのは難しそうでした。というか手間をかけたくないので、手の込んだ方法は却下。

推し活で使っているPinterestでやってみたら出来ました!

 


pin.it

実験ですが、一応落語会の情報も書きますね。

【福井】
三遊亭兼好 三遊亭萬橘 ふたり会

2024年4月27日(土)
18:30開場19:00開演
会場:ハピリンホール

全席指定3,000円 (200席限定)
3/16(土) 一般販売

〈プレイガイド〉
・ハピリン1階 総合案内(10時~19時)0776(20)2080
https://nigiwai.ftmo.co.jp/archives/event/2173
パリオシティインフォメーション(10時~19時半)0776(25)8888
・ハートピア春江(9時~18時半)0776(51)8800
・チケットぴあ Pコード[523-318]

主催:あわららくご会
問合せ:090-2032-0874 ふじさき
https://fukui-rakugo-calendar.jimdofree.com/

上に書いた内容は推し活カレンダーにまとめたものですが、
最新情報はご自身でもご確認ください。

三遊亭兼好師匠ファンサイト|三遊亭兼好師匠 落語会情報

ブログに落語会の情報を載せるつもりがなくて思いつきもしませんでしたが、これなら公式サイトのリンクも辿れますね。Pinterestを介する分遠回りではありますが。。

話は変わりますが、しばらく落語会情報だけ更新していた兼好師匠のファンサイトをメンテナンスしました。特別新しい何かがあるわけではありません。主にリンク切れ修正をしました。作業内容は大した作業ではないのですが細々時間がかかり疲れました。

少し前からいくつも書籍リンクの画像が表示されなくなっていたのですが、Amazonの仕様変更によるものだったようで、楽天に変えてしまいました。

リンク踏んで欲しいというより書影やDVDジャケットを見てほしくて設置しているので画像表示優先。推しグッズはもちろん買っていただければ喜びですが。最推し書影は楽天ではなく東京かわら版のお店からのものです。メンテナンスする度に在庫がなくなり購入できないものが増えることに気づきますのでご検討の方はどうぞお早めに。

「見てほしくて」は私の推し活には重要なキーワード。
定席に出ていない推し、三遊亭兼好師匠を「知ってほしい」からお近くに落語会があることを「知ってほしい」というのが推し活の原点です。

今は必要性があるのか?と思うぐらいのスケジュール、定席も円楽一門の交互出演や余一会で新宿末広亭にお出になることも珍しくなくなりましたが、人目に触れる話題性としてはテレビやラジオのレギュラーがある方に比べてしまうと、落語っておもしろいのかなあ?と思い始めた人に真っ先に見てほしい師匠なのに!と思ってしまう。

落語を見に行くようになっている方からの信頼はもう十分かと思いますし、イラストもお上手で連載もお持ちなので完全に個人的欲求、だから推し活としてやっているのですが、定席で10日間トリを取れる真打やその一座の顔見世効果ってやはりすごいんだと今更に思うのです。人気商売の顔見世や話題の数って大事なんだなと実感します。

原点の話に戻りますが、落語にハマったと自覚してから落語会でもらう紙のチラシをたくさん見るようになりました。もともと美術や文化系に関心もあったので見ること自体楽しくなりました。チラシも「見てほしい」要素になりました。

凝っているものから全くそうでないもの、いつの写真を使っているのか?が面白くなってきたり、恒例の落語会や主催者はチラシで雰囲気を楽しめたりします。
中には凝った企画に合わせたデザインで落語会で、師匠方は落語をするのかどうかわからないようなものもあります。逆に定席の番組チラシは最近でこそネット上で見ることもできますが、木戸でもらって初めて見れるのが寄席の楽しみにも思います。
今はネット上に画像が上がることも増えましたが、画像で見てもできるだけ紙のチラシを手にしたいと思います。

チラシはこれから行われる落語会を売り出すものなのでどしどし出回ってほしいです。ただ、画像だけ出回っても出演者も日程も探し出すのが難しいですけども。
有料配信やサブスクの影響か、落語会へ行った人だけの楽しみだと思っていたプログラムが後からネットに載ったり、今しか買えないと思っていたものが後からまた出る。切り売りされているように思えるものは(環境によっては喜ばれる方もいらっしゃるかと思いますが)あまりうれしくありません。出される方もご商売でしょうし、感触でしかないので、これは人によると思いますが。。話が脱線しました。

そんなこんなで落語会の情報をTwitterに出すようになり、推し活カレンダーを作って知った情報を随時追加するようになり、チラシ以外の画像もたくさん見かけるようになったので合法的にまとめて見れちゃう場所を作ってファンサイトが組みあがりました。

チラシはどしどし出回ってほしいと思いながらも、今は正直なところ落語会の情報がありすぎてSNSで推しを見つけてもらう考え方はなくなってきました。ネット上の広告の量に胸焼け気味だからかもしれません。

それでも偶然にも自由研究からビラ、つまり昔のポスターやチラシ・広告まで興味が及んでいるのも面白いと思っていて、そもそも学生時代に見てきた役者絵だとか花魁の浮世絵も役割として似ているものなので、映えの良いチラシもなんだそれは的なゆるいチラシも、自分の部屋で楽しむように紹介する実験をしてみたいと思います。

いつやるかわかりませんが、ちょっとだけお楽しみに。

 

おまけ

pin.it

昨日書いた自由研究で「デブの圓生」こと五代目三遊亭圓生師匠が寄席で女性の洋装姿で踊る様子をマジかと思って紹介しましたが、なんのことはない、「落語教育委員会」で歌武蔵師匠、喬太郎師匠、兼好師匠がやっているコントみたいなものだ…と書いてから思いました。鹿芝居の某師匠を思えばいくつになろうがやれるのか・・・芸人というお仕事の面白さですね。

entsunagi705.hatenablog.com

 

 

 

 

静岡・入道館 その3 昭和初期の静岡寄席興行

かつて静岡市内にあった「入道館」での寄席興行のエピソードを六代目三遊亭圓生『寄席切絵図』の中からご紹介。今回は関東大震災を経て昭和に入った頃の静岡興行の話。
前回の大正10年の話もよろしければお読みください。

entsunagi705.hatenablog.com

昭和初期当時の不況

寄席の話に入る前に、時代背景について。

大正10年から昭和の始めとは、歴史で見ると昭和恐慌の只中。
大正7年第一次世界大戦終結すると、大戦景気が過ぎ戦時バブル崩壊1920年代(大正9年昭和4年)は国内が慢性的な不況に陥っていたそうで。

この不況は大正の戦後恐慌、銀行恐慌、震災恐慌、昭和恐慌とも呼ばれる昭和金融恐慌、昭和農業恐慌と続く。昭和4年の緊縮政策後に景気は一時回復するも世界恐慌の影響を受けて更に危機的状況に向かう。後の内閣がデフレ政策からインフレに政策転換をし昭和8年には景況改善に成功するものの、長く続いた不況と貧富の格差を背景に過激な思想から五・一五事件二・二六事件といったクーデター未遂や首相暗殺事件が起こる。政策のための軍備拡張や激化する事件への対策と満州事変や支那事変を経て発言力を強くしていく軍部、軍政へ移行と日本は大戦に向かっていく。

・・・とまあ付け焼刃で当時について勉強し直した。

落語からの興味だから調べてみたけれど明日には忘れそうな複雑さ。
世の中を変えたいとクーデターを起こしたり、政策に軍が権力行使していく物騒な時代は歴史の勉強で聞くだけにしたいところ。不況、恐慌、震災、クーデター、戦争。経済状況が悪くなるとこういう流れが起こることは忘れてはいけない。

硬派の話の後は、同じ時代を寄席のライバル、活動写真・映画業界で見てみる。

国内の映画館は明治36年頃からいっせいに出来はじめる。大正元年、既存の映画会社が数社集まり日活発足。大正3年にはチャップリンのサイレントシネマが出始め一世を風靡する。国産映画も歌舞伎のような演劇的な作品から撮影にカット割り技術を取り入れるようになり「活動写真」から「映画」と呼び名が変わっていく。

第一次世界大戦終結後にハリウッド映画が入るようになり、国内の映画会社は純映画劇運動で対抗していく、関東大震災で多くの撮影所が壊滅し運動も下火に。一時撮影は京都でしかできなかった。震災を挟んでも映画館数は次第に増加。参照した昭和4年の『日本国勢図会』によると大正9(1920)年には472軒(うち東京府62軒)、大正12(1923)年には701軒(うち東京府102軒)、震災後の昭和2(1927)年には1172軒(うち東京府202軒)となっている。

 

旅興行の話をする前に当時の情勢と映画について書いたのは、番組の内容の変わり様に驚いたから。圓生師匠は当時は不況でしたからねぇと軽めの調子だが、普通の調子では成り立たない不況がわからない。映画に客を持って行かれた時期かと単純に考えていたのを、緊縮政策のせいじゃないかと噂したという話を目にして映画の隆盛以外の寄席が不況になる理由について調べてみた。

世界恐慌関東大震災と続いてその後に歴史に残るクーデター事件が起る時代は調べてみても想像がつかないが、ほんの少し感触が近いものがあるとしたら新型コロナウィルスの感染拡大や情報として流れてくる同じ時代の災害や戦争かもしれない。景気も人気も気のものだ。

前置きが長くなりすぎたところで、若き圓生師匠の話に移ろう。

静岡入道館 昭和初期の五代目圓生一座寄席興行

寄席は不景気で客が来ないという頃の入道館。
時期は震災後、昭和の始め頃で先代圓生の一座。

一人で聴かせる芸よりも余興で盛り上げようとの趣向か
番組に落語は一席のみ。
六代目の圓生本人は何度も出番があって舞台にあがったそうだ。

大正10年は五代目三遊亭圓好、大正後半は四代目三遊亭圓窓で昭和に入るころに四代目橘家圓蔵となっているので六代目圓生師匠の圓蔵の時代と思われる。ここでは圓蔵だったという仮定で話を書くのでご了承いただきたい。

 

番組始めは『東西八景』と題した「かっぽれ」の総踊り。
前座が上がるところにいきなり一座が皆で浴衣の揃いにお客はびっくり。

その後は喜劇、軽業と続く。
軽業も噺家が楽しませる類のもの。

まず上乗りの太夫役で圓蔵(六代目圓生)が舞台に出て、剣舞の源一馬、音曲の萬橘二人が押さえて立てる太い竹によじ登る。
天井の方まで上ると事前に吊るしておいた舞台上前側の欄間部分で隠れるブランコに移る。
一馬が舞台で竹の上に人が乗っている体で棒を肩へかついで軽業のフリをする。
出初式の梯子乗りみたいなことだろうか。どちらかというとテツandトモの顎のせが思い浮かんでしまう)

続いて萬橘が「つぎなる芸当は、邯鄲は夢のまくら…」というと天井で圓蔵が「はアッ」っと掛け声だけして技を決めたフリをして、萬橘が口上で「あのとおりでござい」といって上を指さす。邯鄲は夢のまくらとは軽業や曲芸の技で涅槃仏のように横一文字に寝て手枕の形をして空中浮遊するという手品的なものらしい。

そんな調子で軽業を終え、上から圓蔵が降りてくるところにもう一工夫がある。芸が始まる前からの仕込みで、もう一つの天井ブランコに控えていた若蔵が太竹を伝って降りる。
アレ?昇っていたヤツと違う、となったところへ圓蔵が降りる。途中足をすべらして転び「いたい、いたい」痛がって騒ぎにしたところで
太夫さん、どこがいたいんだい?」と聞くと「軽業(体)じゅうがいたい」でサゲ。孝行糖っぽい。

人を食ったようなものだが割にウケたのだとか。技を見せるのでなく噺家がやるので口上も間合いも上手いのかもしれない。
東京でもやったことはあるが舞台上の構造で出来る場所を選ぶものだしというので ”だんだんわからなくなっちゃうでしょうねェ。”とは圓生の言葉。

若蔵とは三遊亭若蔵、のちに六代目三遊亭圓好となったが戦中に廃業して都庁の広報課の役人になった人物。途中広沢虎造一座にいて浪曲まじりの落語をして広沢若蔵といったそうだ。

軽業のあとは五代目圓生が落語を一席。

書かれてはいないが私ならここで仲入りにする。
なぜならその後は大切り大喜利)だからだ。

大喜利といってもテレビで見る笑点のようなものではなく、なんと先代圓生が扮装するという。その名も『東洋テレル夫人』

この頃テレル夫人という歌手か何かの大きくて太っている外国人の女性が来日したことがあった。通称「デブの圓生」と呼ばれた先代圓生の体格に女性の洋装姿をさせ、舞台にテレル夫人登場。そこに圓蔵の六代目圓生も洋服を着て出て歌い、先代圓生の夫人がダンスを始めるという・・・想像しただけでくだらなくて楽しそうな大喜利
掛け合いの末に先代圓生が「あたしはてれる」でサゲ。女装してきまりが悪い、の照れるとテレル夫人がかかっているというわけ。

表看板に(肩に「東洋」で)「テレル夫人来たる」と書いておき、テレル夫人とはどんなものかと近所で噂して見に行くとなんだ圓生がやるのかと客は大笑い。

これを人形町の末広でやった時に怒って怒鳴った客がいて、
「いやどうも、静岡のほうがよっぽど粋だってんでね、笑ったことがありました。」

『寄席切絵図』では興行の様子を実況中継よろしく六代目圓生の言葉が読めるので、そちらもぜひ手に取ってみて欲しい。

寄席切絵図 (青蛙選書 54)

六代目圓生コレクション 寄席切絵図 (岩波現代文庫 文芸 336) 

【バーゲンブック】 新版 寄席切絵図 新装版

ちなみに今時不適切かと思ってやや抑え目に表現した大きくて太っている外国人の女性、テレル夫人の姿を見つけた。
これは文章で読んでも想像がつかない、外国人だから大きく見えるというのではないサイズの女性だ。参照した博覧会資料には「場内呼物」「百三貫の世界一の大女」とあった。歌手ではなく「○○世界一」で話題になって世界を回っていた人ではなかろうか。

国産振興北海道拓殖博覧会第一会場 (世界一ノ大女テレル夫人),昭和6年 http://gazo.library.city.sapporo.jp/shiryouDetail/shiryouDetail.php?listId=465&recId=103435&pageId=1&thumPageNo=1 (参照 2024-02-19) 

前回大正10年と今回昭和初期と10年程で座長が四代目橘家圓蔵から五代目三遊亭圓生となっている。四代目圓蔵師匠は大正11年に他界。

これを書くのに一座の噺家を確認していくと、今ではありえない移籍や改名がたくさんあってある意味軽快。橘家圓蔵三遊亭圓生名跡を継いだ六代目圓生も太竹に上るのだ。昭和の名人はそれはすごかったのだろうが、圓生師匠のこういうところが面白い。自分の師匠や義父の一座で旅興行というリラックスした気分もあったのだろうか。

おまけ

偶然に大正初期の写真の中に入道館の幟が写り込んでいるものを見つけた。
恐らく2点とも同じ写真を使用したものと思われる。

〔静岡県のアルバム2、3〕大正初期, 静岡県立中央図書館デジタルライブラリーhttps://multi.tosyokan.pref.shizuoka.jp/digital-library/detail?tilcod=0000000027-SZ00246 (参照 2024-02-19) ※69コマ目

絵葉書「静岡市 七間町ヨリ札之辻町通リ県庁前 A Stereet of Shidzuoka.」
https://multi.tosyokan.pref.shizuoka.jp/digital-library/detail?tilcod=0000000032-SZ00001541 (参照 2024-02-19)
 

七間町通りから札の辻、その先の県庁を写したものだが、戦前の静岡市内の繁華街の様子がここまで瓦屋根のお店が続く様子だとは想像がつかなかった。
関東大震災の被害は県東部が甚大だったが、静岡市内も宝台院に避難する写真など残りその後の大火もあると思うと地震も火災も今では考えられない被害があっただろうと思ってしまう。

一方で大正初期といえば入道館の持ち主となった桃中軒雲右衛門の浪花節が大流行した時期だろう。入道館の幟に浪花節の大きな文字があるのも当然だろうと楽しい気持ちになる。

 

主な参考資料:

史料にみる日本の近代|年表|国立国会図書館

矢野恒太 編『日本国勢図会』昭和4年版,日本評論社,昭和4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1466353 (参照 2024-02-19)

 

entsunagi705.hatenablog.com

 

 

寄席・落語家の100年を知る推薦図書?(個人比)

今回は寄席・落語家の100年資料といえる書籍感想つれづれ。

 

橘左近『東都噺家系図

前回六代目圓生若手時代の静岡興行に触れた。
entsunagi705.hatenablog.com

一座の多くは当時の若手だからか詳細不明。
四代目橘家圓蔵の一門について調べたく
橘左近著『東都噺家系図』を手にしてみた。

結果からいうとこの本は一門について書かれている本ではなかった。
落語発祥から200年分の江戸・東京落語家名跡百系統をまとめたものだ。
左近師匠も書かれていたが、噺家の系譜をすべてをまとめるとは口で言うほど容易なことではない。

名跡ごとに系譜にまとめ、継いできた人物を代数ごと説明し、名跡を襲名するまでの名、更に変えた名前などもまとめられている。あるものは写真も掲載されている。
併せて出版当時の現役落語家についても紹介されている。

東都噺家系図

東都噺家系図(筑摩書房)1999年

 

橘右近『寄席百年 : 橘右近コレクション』

ブログで落語の自由研究について書くきっかけになった
三遊亭圓朝の静岡興行。

寄席があった場所を調査していたところ
圓朝の興行ビラが残されていたことがわかった。

しかも現在は江戸東京博物館蔵の橘右近コレクションとして
デジタルアーカイブで家からすぐに確認できたことが
自由研究を俄然やる気にさせてくれた。

寄席ビラ(三遊亭圓朝)| 江戸東京博物館デジタルアーカイブス 

このビラが静岡の興行のものだと認識したのは
ネット上に公開された画像からだったが
圓朝のビラとしてわかりやすく華やかで目立つからか
改めて見回すと手元にある落語に纏わる書籍にも載っていた。

橘右近コレクションの圓朝が使っていた道具なども
幽霊画の展覧会で見た覚えもあった。
もしかしたら見つけたというビラも
実物を既に見ていたかもしれない。

橘右近師匠とコレクションの存在感を思い知った。

 

実はこのコレクションは1982年に一度書籍にまとめられている。

寄席百年: 橘右近コレクション

寄席百年: 橘右近コレクション(小学館)

その後10年以上右近師匠がご活躍だったことやコレクションの規模を考えるとすべてを網羅しているわけではないかもしれないが、この大型本は展覧会の図録と橘右近の知で寄席百年を表したようなものすごい書籍だった。

この本を静岡興行のビラを作った「ビラ豊」やビラ文字の歴史について調べるために一度手に取って見たことはあったのだが、ビラに関することだけ確認する程度しか読まずその凄さに気づかなかった。

収集された品は寄席ビラに留まらず、噺家のブロマイド、引き継いだ集古庵の品、初代橘家橘之助に纏わる品、圓朝に纏わるもの、噺家時代の右近師匠が依頼した噺家の色紙、大正、昭和も初期や戦後の寄席の資料や噺家団体の写真も多数。大正6年の寄席演藝地圖はそれだけで見ごたえがある。先日『東京人』の落語協会100年特集で見た写真も多くあった。右近師匠の仕事を見せる物でもあったわけだ。

それらの目にも華やかな資料とは別に感動したのが「右近寄席噺」

右近師匠は18歳で三代目の柳家つばめ師匠に入門したが、その前から親元を飛び出して芸に向かう。
寄席で過ごし、噺家として過ごし、前座時代二代目ビラ辰の仕事を通い見て、寄席でビラ字を書いた噺家に教わり書くようにもなり、ビラ字書きが仕事になる。関東大震災も戦時中の疎開も経験し、寄席の楽屋主任となり、時代で失った収集をしなおし、集古庵というコレクションを引き継いで研究する人達と繋がっていく。落語界をけん引するリーダー達の後押しが繋がり寄席文字を確立し家元となる。出会ってきた寄席と噺家達の記憶を詳細に交えた文章は壮大な橘右近一代記だった。

橘右近の主観でありながら演者側と寄席側、ビラを書く職人として、落語と寄席の資料蒐集家としての複眼の視点が掛け算の記録。コレクションにも勝る資料だ。

中に地方巡業の話も少し書かれていた。
どちらかといえば東の方へ旅をしたことが多かったらしく青森、函館、金沢、甲府あたりの寄席の名前が出ていた。
また六代目圓生の『寄席切絵図』にも載っていた名古屋の文長座も登場する。
これは立花家橘之助と橘ノ圓夫婦が名古屋にいた時代ということで
関東大震災後のことかもしれない。橘之助師匠の再婚相手だった橘ノ圓師匠は世間でいうものとは違ったこと、ご夫婦の住まいのことなど丁寧に書き記されている。

六代目圓生とのエピソードもあった。
何度か紹介している『寄席切絵図』は昭和52(1977)年に出版されたが、
翌年にいわゆる分裂騒動となり圓生は昭和54(1979)年に他界。
右近師匠とは資料収集の話もする仲で『寄席切絵図』に続く書籍を出すために集めた資料を一部余計にコピーして右近師匠に見せたという。

読み進めてきたことに一定のテーマがあるからかもしれないが
このエピソードがうれしくも圓生師匠の次が読めないのが残念でもある。
ただ橘右近師匠の資料を改めて手にして読めたことは幸運だ。
ルーツを調べ今を遺そうと行動していた人達の話を受け取れた令和の読者として。

山本進『図説 落語の歴史』

文章を追っていく落語界も好きなのだが
「図説」というところに惹かれて一度見ておきたかった本。

図説 落語の歴史 (ふくろうの本)

図説 落語の歴史 (河出書房新社・ふくろうの本)  

コンパクトにまとめられているにも関わらず
歴史の流れがわかりやすく難し過ぎず手に取りやすい。
特に略年表は出来事を追うのに便利だ。

貴重な写真も載っていた。上野鈴本は戦前(昭和12年)と戦後(昭和29年)と、右近師匠が楽屋主任をしていた神田立花や戦後の池袋演芸場人形町末広、新宿末広亭などもある。サイズは小さいが『寄席百年 : 橘右近コレクション』にあった大正6年の寄席演藝地圖も載っている。2006年出版。

「図説」がどんなものかと手にした本だったが著者の名前に憶えがあった。
『寄席切絵図』のあとがきで見たお名前だ。

圓生師匠の著書『寄席育ち』『明治の寄席芸人』『寄席楽屋帳』と『寄席切絵図』では実質”語りおろし本”の編集者という立場。聞き書きの名手と呼ばれ方だとか。

一昨年亡くなられた際に訃報を見たことを思い出した。
見た記事には書かれていなかったと思うが、圓生没後の名跡止め名の署名をしたお一人らしい。親交が深かったということだろう。

連続して手にした二冊に同じ人が携わっていたのも驚くが『寄席切絵図』から約30年後に『図説 落語の歴史』を出されてたということを知れたのもうれしい。
その出版から更に18年経過しているが、今も楽しめる手にしやすい落語の歴史本だ。

寄席・落語家の100年を知る推薦図書?

落語界の100年を濃い内容で教えてくれた書籍4冊。
年代順にしてみるとこうなる。

 昭和52(1977)年    三遊亭圓生『寄席切絵図』
 昭和57(1982)年    橘右近『橘右近コレクション 寄席百年』"
 平成11(1999)年    橘左近『東都噺家系図
 平成18(2006)年    山本 進『図説落語の歴史』

年代が進むごとにまとめられ方も工夫され、かつ内容は途切れず繋がっているのがわかる。

落語を楽しむ諸先輩からしたら当たり前の本かもしれないが
生の落語で笑いたいが出発点なので
こういう本を手にすることになるとは驚きで
落語のどのあたりに興味を持っているのかを再確認できる機会になった。

落語を通すと興味を持って自由研究になり面白く知ることができて、更に落語を聴いて想像できるものが増えるのは好循環。

江戸時代から続く、と聞いてはいても落語には江戸時代にないものもよく出てくる。
けれども明治大正昭和のことは落語界だけでなく意外に知らないことが多かった。
同じ時期に手にした4冊で知らない時代を何往復か旅できたのは良かった。

先日の『東京人』の落語特集もライトな歴史本として5冊を直近の寄席・落語家の100年を知る個人的推薦図書としておく。

 

残念ながら4冊の著者全員が鬼籍に入られてしまっていた。
新たな発見をまとめてくれている現役はどなたになるのだろうか。
興味を持ったばかりで見逃しているだけかもしれないが。

今研究している人や団体、情報はどうやって知ることができるのだろう。
それぞれが趣味として繋げたものが集積される仕組みと
それを見つけられる場所があればいいのに。

明治時代を調べて国立国会図書館に触れることになり
意識的に記録を遺していこうという動きも知って
古い時代を知ることと同時に整理して取り出せる動きにも関心が高くなった。
出版物を待つしかなかった時代より便利になって欲が出る。

おまけ

明治期に系図にまとめられたものに「文之助系図」と通称される、四代目桂文之助著『古今落語系圖一覧表』というものがあるそうだ。
これに山本進氏が校注をつけたものが平成16(2004)年に日本芸術文化振興会から 演芸資料選書『古今落語系図一覧表』として出版されているらしい。

日本芸術文化振興会国立劇場を運営している独立行政法人だ。
劇場運営だけでなく伝統芸能の後進育成や資料収集、研究資料編纂も行われている。

実は昨年秋に閉場した国立劇場の図書閲覧室が今月から再開していることに気づいた。
前日までの予約が必要とはいえ、演芸資料には事欠かない上、国立国会図書館も徒歩圏内。閉場前にも所蔵品の展覧会や推し師匠の記録映像視聴で出かけていたので資料閲覧はどうなるのか気になっていた。
再開を知って行く機会を作ろうと思った矢先に次のカギになる資料が半蔵門にあるとはお導きのようで楽しい。

もし行くとしたら懐かしい場所なので平河天満宮さまと可否道にも立寄りたい。

静岡・入道館 その2 大正時代の静岡寄席興行 

先日紹介したかつて静岡にあった寄席「入道館」のお話をまた。

entsunagi705.hatenablog.com

四代目橘家圓蔵が静岡・浜松によく行ったことから
弟子の六代目圓生も若い頃一緒によく行ったそうで
昭和初期まで静岡の七間町にあった寄席
「入道館」へも大正時代から出ていたらしい。


『寄席切絵図』で圓生が取り上げている記事によると
大正10(1921)年9月の5日間興行の顔ぶれはこんな感じ。

 四代目 橘家円蔵
 三代目 三遊亭萬橘
 源一馬(剣舞
 五代目橘家圓好(六代目三遊亭圓生
 柳家燕花(三代目小さん門下、後 鹿野武左衛門
 小圓治(元二代目小圓朝門下 圓太、後に三代目小さん門下へ)
 橘家蔵造(橘家蔵之助の弟子)
 小金馬(二ツ目碓井の金馬の甥)
 橘弥(前座)

にわかに調べる素人自由研究では
上から四人しか素性がはっきりしない。
その他はネット検索したくらいでは詳細不明。

真打、看板にならなかった二ツ目止まり、生涯前座、といった人達は
入門や活動時期が曖昧で門人として残される資料に入っていない模様。

圓生は出版した昭和52年頃に知られている同じ芸名の人物との違いを分ける為に
本名や師弟関係、親類関係などを交えて丁寧に説明をつけ素性を書き残している。

驚異的な記憶力もさることながら
資料収集や調査をしている仲間うちとのやりとりも垣間見える。

インターネットも一昔前に比べたら飛躍的な情報量で
利便性も信用できる情報も増えたが 効率優先度が高い世界だからか
圓生師匠の本に残されていても情報として見つけられない。
需要がないからだろうが、その程度なのかと少し驚く。

噺家系図を深掘りするつもりはなかったのだが
橘左近先生の『東都噺家系図』辺りを広げてみることになりそうだ。

とはいえこういう時、ネット上の先人情報にもにぶつかる。
蔵造の師匠で上方で大看板になったという
橘家蔵之助についての記事だ。

落語家銘々伝 橘家蔵之助 : 上方落語史料集成

名古屋・大阪・金沢などの興行記録を拾われていて
浜松の勝鬨亭も名が出てくる。

偶然ながら蔵之助師匠は雲右衛門が上手かったらしい。
今の笑点メンバーのように全国的スターは旅先でもウケも良かったのだろう。

 

興行一座の名前を羅列しただけで大きく脱線してしまったが、
この9月1日から5日の興行では四代目圓蔵は『妾馬』『無学者』『宮戸川』『巌流島』『遠山政談』をかけたとある。
この興行での圓好(のちの六代目圓生)はすこぶる評判が良い。
ご本人はなにを演ったか忘れたというが、60年近く前のことなら当然だろう。

圓蔵一座の興行前には神田伯山、
前月8月には林家正蔵も来静していたらしい。正蔵は時代から六代目と思われる。

神田伯山は三代目の「次郎長伯山」との異名を持った人物と思われる。
清水次郎長伝」というと浪曲広沢虎造が思い浮かぶが
三代目伯山の次郎長伝がベースとなっているらしい。

清水次郎長親分も以前に明治時代・圓朝の静岡興行を調べたことから
全生庵を興した山岡鉄舟との縁で明治に偉業を成し遂げたことを知った。

静岡には次郎長よりも力があった親分方がいたのに
清水次郎長」の名が知れ渡ったことは演芸の力が大きい。

静岡の興行についてわずかに知り始めたばかりだが
東京で評判の芸人一座も旅興行でやってきて
東西各地の寄席や劇場に出向いていったことを思うと
清水次郎長伝が東のみならぬ「海道一の親分」となったのも
どこか納得がいって興味深い。

大正10年の圓蔵一座は色物を混ぜ、
萬橘が音曲師であったことを考えても今に近い落語の寄席興行だったのが
関東大震災後は少し様子が違ったらしいので次に紹介する。

寄席切絵図 (青蛙選書 54)

【バーゲンブック】 新版 寄席切絵図 新装版

 

entsunagi705.hatenablog.com