直子の部屋

笑ったり泣いたり踊ったり暴れたり推し事したり。

圓朝が静岡興行した寄席さがし(脱線中)

三遊亭圓朝師匠の静岡興行に帰省してから改めて興味を持っている。

 

圓朝師匠が山岡鉄舟井上馨だけでなく渋沢栄一とも縁があり、渋沢氏に同行し静岡で徳川慶喜公に会った記録が残っていると知って興味を持った。
静岡に来ていたことがあるのかと。慶喜公の前でも口演していたのかと。

お恥ずかしい話だけれども、無血開城大政奉還静岡藩設置といった近代の大事に静岡の地と山岡や渋沢といった人達が関わっていたのもつい最近知った。

鉄舟から影響受けた円朝・・・その十六 - 山岡鉄舟研究会のブログ

静岡藩仕官時代 - 渋沢栄一ゆかりの地

全生庵には何度も足を運んでいたけれど、なぜ圓朝という人が鉄舟と縁が深まったのか不思議に思ってはいた。

推し師匠の落語を聴く楽しみから繋がって圓朝師匠にも興味をもった。でも気が向いたら調べるその程度。帰省して島田の図書館で偶然見つけた慶喜公の本。興味本位で記録を探してみる。かなりわかりやすく記録されていたらしく簡単に圓朝来静の記録が見つかった。

圓朝明治29年11月20日から静岡で興行があり、前後二度 慶喜公にご挨拶されている。

慶喜邸を訪れた人々―「徳川慶喜家扶日記」

圓朝について調べている人はたくさんいて、ネット上でも近い情報を見つけることはできるけれど、手に取った書籍で見つけるとなんだか実感が増す。

 

その件も少し忘れかけた頃、偶然手元にある本に島田で見つけた静岡での興行のことが場所や顔付けまで載っているのを見つけた。
新版 三遊亭円朝 (青蛙選書)」という本で、東京かわら版さんのお引越しガレージセールで手に入れた。偶然開いた頁に圓朝が静岡の興津にある井上馨の別荘へおもむいた話が載っていた。
静岡興行は呉服町四丁目 寄席愛共亭で行われ、全生庵に寄贈されたビラまであるという。「呉服町」は馴染みのある町名。俄然「寄席愛共亭」を見つけたくなった。

 

静岡市内の古地図はネット上でも見つけられるものの、市街地の詳細が載っているものはなかなか見つからない。呉服町は静岡(現在の葵区)市街地の中心部なので、資料が無いわけではないのだろうけれど、遠隔で見つけるのは難しい。

静岡県立中央図書館の「静岡県関係地図目録」に明治26年~28年辺りの静岡市明細全図、静岡市明細地図といった資料があるけれど、屋敷ではなく店が並ぶ市街地の寄席まで載っているだろうか?図書館の地域資料情報も昔に比べたら探しやすいけれど、図書館へ資料請求するところまではおいそれとはいかない。
昔興味を持った「葵文庫」の資料も見れるものがある。どんどん脱線する。

ふじのくにアーカイブ|静岡県立中央図書館 

 

探す過程で8代林家正蔵(林家彦六)による証言なんてものも見つけた。圓朝の芝居演出の貴重な話。

ひとつ前に書いた彦六師匠の話と一緒に知ったのが、彦六師匠がおじいさんと呼んで最後まで面倒をみたという三遊(亭)一朝師匠。この方は圓朝の直弟子。圓朝の怪談噺や道具入り芝居噺は一朝から彦六へと引き継がれたそうだ。彦六師匠がおじいさんの一朝師匠から圓朝の様子を聞いていたと思うと証言も真実味がある。彦六ものまねを十八番でやってくれる木久翁師匠のおかげか、実際の年月よりも圓朝が身近に感じるから不思議だ。

entsunagi705.hatenablog.com

静岡の興行について『圓朝異聞』に情報があるらしい。探していたところ、彦六師匠の証言を引用した方の記事から国立国会図書館デジタルコレクションの圓朝全集十三巻に収められている『圓朝遺聞』を見つけることができた。自宅のパソコンから資料が読める。本も嫌いではないし落語に興味はあるものの、圓朝全集を端から読むタイプではない。自力で調べたら十三巻にたどり着かないだろう。先に見つけてくれてる先輩がいるのも、家で読めるのもありがたい。良い時代だ。

とはいえ静岡の興行の話がどこに載っているのかは読むしかない。読み始めると圓朝師匠と周辺の人達のエピソードが面白い。調査の手が止まるほど。噺しではない実話の人情が面白く興味深い。

 

名士の観た圓朝」にはなぜ圓朝と鉄舟の関係性を感じられる話がある。
噺家と画家の関係にも興味があり清方が圓朝を語るのも興味深い。

退隠の事情」は例の分裂騒動みたいじゃないか!芸人さん達らしさに笑ってしまった。

病没の前後」には圓朝が頼る弟子圓楽として三遊(亭)一朝師匠が登場している。二代目の三遊亭圓楽だった師匠は、三遊一朝になって二ツ目時代の彦六師匠に三遊亭圓楽の名前を譲ったのだとか。師弟が親子、それ以上に感じられる師弟関係の重なりが偶然目の前に続けて出てきて不思議だ。

六代目の円楽師匠が亡くなってからさらに落語に関わる名前の話題に気が向くようになった。圓朝の名の所在も最近知った。名前が芸人の親類ではなさそうな方のところで預かられていた経緯を順を追って知ると単純でないことが良くわかる。全生庵に残されている幽霊画の他に関東大震災で焼失した遺品のことも書かれている。一朝の圓楽がそこに登場して、そういえば彦六師匠も圓楽で、という繋がりも偶然のようでいて名前で引っ張られてどんどん興味をもつのが面白い。

圓朝師匠の人間的なエピソードはドラマのよう。それでいて出てくるお弟子さん達は知られた名前の噺家だし、著名な政治家も実在する先人、かつ圓朝贔屓。圓朝本人も実は売り方魅せ方も上手だったろうことが伝わってくる。嫉妬もされそうだ。人間性がわかるようなわからないような不思議な人物。圓朝を調べたくなるのも納得がいく。いつのまにかすっかり脱線していた。

まだ呉服町にあったらしい寄席は見つからない。けれど、つまみ食いのように興味がある本をちょっとだけ読んだり、興味があることをちょっとだけ調べてみると落語の中興の祖から現代まで人で繋がっている実感が楽しい。

寄席があった場所をみつけたとてなんということもない。でも127年ほど前に静岡に寄席があったの!?しかも圓朝師匠御一行が来たの!?というだけでも楽しい。

 

ーーー

慶喜公に加えて漱石も。。これは静岡に関わらないかもしれないが、気になることは増える一方。

夏目漱石の(三遊亭)円朝評(『その後の慶喜』ちくま文庫から): 環虚洞  / 当方見聞(備忘)録