直子の部屋

笑ったり泣いたり踊ったり暴れたり推し事したり。

間に合わせたくない

間が合わない時に無理をしなくなった。

今度こそ言葉を交わせそうなのに合わない。そういう時期はある。

大事にしたいこと、話したい人にことごとく間が合わなくなるので悲しい。間が悪いことが増えて堪える。

ただ、これは不幸だとか不運ではなくサイクル、リズム、循環で起こっていることでもあると知った。それを知ってから氣の持ちようはかなり楽になった。それでも感情の波は変わらずあるし、他人の態度や言葉に反応してしまうこともある。しばらく続くその時期をやり過ごすのも工夫のしどころ。

 

ここのところ楽しみにしていた落語会にすんなりでかけられない。忘れていたわけでもないのに続けて開演に遅れている。いよいよここまできたか、と思う。気が進まない外出ならわかる。それが外したくない予定に遅れる。いよいよ推し活も考え直した方が良いのかもしれない。

 

「間が合わない」ことにばかり気が向く。こうなった理由を考えてみても無駄。所詮 頭の中で考えていることなんて身体を通ってない。ただ「問い」として持っておくと不意に気がつく。

これまでずっと「間に合わせてきた」から「間に合わせたくない」と言ってる。

 

気が向くと動画を見るようになった。「自分を労うといいよ」という人がいたり、名著をわかりやすく解説してくれる人がいたり、ふざけた調子で心理やスピリチュアル解説をする動画もある。「氣が向く」のが大事なので、その気になったら見る。誰かの都合やタイミングに合わせない、見たいものだけ見るのがルール。

動画でも本でも調べ物でもインプットするものは同じルール。このルールに絞り込む時期、トレーニングシーズン。

 

このルールで行くと自分が選ぶものだけを自分のタイミングで自分を最優先にしてあげられる。感受性を労いながら感覚を磨ける。

周囲との関係や職場で自分の感覚を鈍らせてしまう、疲れに気付きにくい、他人のためなら頑張れる、つい真面目になる、落ち込むことが多い

そんな人はこのルールを定期でいいので適用すると取り戻せるものがあると思います。

 

これまでずっと「間に合わせてきた」から「間に合わせでやり過ごしたくない」と言ってる。

 

「間に合わないこと」と「間に合わせないこと」はセット。

とはいえ締切や期限のルールに囲まれている。

時間が決まっている用事は多い。

 

だからつまづかせる。気付けるように痛い苦い思いをさせる。過ぎてやしないかと。間に合わせが過ぎて嫌になってるよ、と。

 

素直に気が向いて見るものが増えると、ある説と逆説の両方が探せば見つかるとわかってくる。

知りたかったことが見つかったら、素直に喜びながらも冷静な視点も鎮(しず)としたいところ。面白ポイントが見つかれば上々。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

 

推しを自分より大事にしたくなってしまうこともあるけど、そのために間に合わせで切り抜けたくない。

 

時間に遅れて恥ずかしい、予定通りできなくて自分はダメだ、もういい歳なのに、という考え方でなんとか間に合わせて何十年。

その長さ分 無理させておいてその分話を聞いてあげたり労ったり励ましたりしていたかな?と思うと、自分以外の人にはできるだけやってきたなと思う。つまり自分の間にはずっと合ってなかったかもしれない驚き。

マイペースだと思ってきたけれど、誰かに何か言われながら矯正して社会に適応している雰囲気にしてきた。躾けられて良かったと思うことも多いけれど、無理が掛かっていて身体に堪えているところはもうそろそろ外してあげたい。