どうしても見たかった第四巻「人と芸の巻 下巻」
注意:【ネタバレあり】の映画感想記事です
先月ようやく1本見れた映画『歌舞伎役者 片岡仁左衛門』
全6巻の中でどうしても見たかった第四巻「人と芸の巻 下巻」を見てきました。
その名の通り「人と芸」が溢れるほど詰まっていました。聴きたかったお話と舞台のお姿。寝不足で寝てしまわないかなんて心配は不要でした。一度では過ぎるほど盛りだくさんでしたが、帰りは充足した爽やかな気持ちで映画館を出ました。

過去上映の際の記事の貼りだしやチラシもありました
当日は夕方4時過ぎの上映でしたが、前回とは違って満席のようでした。上映回が残り少ないからでしょうか。上映後に翌日の予約をしている方もいらっしゃいました。
▼ちょっと愚痴です▼
余談ですが、今回は左隣の女性が見たもの口から出るタイプの人。静まり返っている場面で何度もつぶやく声がちょうど耳に入り難儀しました。途中むせてかばんを漁り、こちらに日傘が倒れてくるという調子。
なくて七癖、私もそういう細かいことが気になってしまう悪い癖があるわけですが、劇場でも映画館でも客席で過ごす準備をされず、自宅のリビング感覚の方は年配の方でも少し増えた気がします。今時周囲が注意してくれる方が稀なので、携帯電話同様こういうこともガマンする方が損なのかもしれません。。
第四巻 人と芸の巻 下巻(105分)
1988年から1991年の「芸談を聞く会」で様々な芸談を語る様子が収録される。『東海道四谷怪談』の怖さについて、10歳に時に父から『近頃河原達引』の猿廻し与次郎を教えられた時のこと、『廓文章』の伊左衛門についてなど。また、1962年に、当時不振を極めていた関西での歌舞伎公演の復興を目指して私財を投じて行った「仁左衛門歌舞伎」の初日のことも語る。 本巻では、仁左衛門に近い人たちにもカメラを向ける。喜代子夫人、長男・片岡我當、次男・片 岡秀太郎、三男・片岡孝夫、五女・片岡静香、番頭・伊藤友久のインタビューでは、役者として、人間としての仁左衛門が語られる。
また、『堀川波の堤』(1988年、京都 南座)、『鬼一法眼三略巻』の「菊畑」(1989年、南座)、 『寿曽我対面』(1990年、南座)で舞台に立つ姿も収録。
製作:1992 年 企画:仁左衛門丈の芸談をきく会 製作:自由工房
ポレポレ東中野HPより引用
この第四巻をどうしても見たかったのは、上方歌舞伎の復興に動いた当時を仁左衛門丈ご自身が語られていると知ったからです。
「若鮎の巻」の感想でも触れたとおり、上方歌舞伎の復興に尽力されたということが、十三代目片岡仁左衛門という人物に関心を持つきっかけでした。でも関心を持った後も、時代の出来事として知っているだけでした。
当事者として何を語られたのだろう。
それがこの映画を見たいと思った一番の理由かもしれません。
前回見た「若鮎の会」では、若手役者が自分達で始めた自主公演のために稽古をつける仁左衛門丈の姿を見ました。後進にできるだけ上方歌舞伎を伝えていくという姿勢の源流には、復興に動いた時代の経験があり、再び絶やすことのないようにという想いが感じられました。
「人と芸の巻 下巻」では、仁左衛門丈とご家族と番頭さんの証言で上方歌舞伎の復興公演の時代がより具体的に見えてきました。更に貴重な写真や舞台映像と芸談で、十三代目片岡仁左衛門という人も歴史も知ることができました。
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「芝居の蔵」
序盤で印象に残ったのは、仁左衛門丈を「芝居の蔵」と表現された番頭の伊藤友久さんの言葉でした。
お話しているお部屋の壁一面にびっしり詰まれた資料と畳に広げられた歌舞伎役者にまつわる浮世絵や芝居の大きなビラを見れば一目瞭然。
国立劇場の資料室で見たものは、あの中にあったものかもしれないなと思いました。
昭和28年から仁左衛門丈とお仕事してきたという伊藤さん。台詞の多い役でなくとも情熱的と言えるほど研究された、その探求心に圧倒された、と間近で見てきた方がお話しされる言葉に、どうしても上方歌舞伎復興と継承への情熱が重なりました。
ご家族が語る仁左衛門丈
ご家族のことはほとんど知識がなかったので、男3人女5人のお子さんがいらっしゃることは驚きでした。
とても仲が良いと感じるご家族が語る仁左衛門丈や、ご家族揃って特集されたテレビ番組を見る光景には、仲の良さだけでない結束感も感じられました。それぞれが見ている仁左衛門丈は、役者だけではない顔もありました。
長男・我當丈が語る仕事の顔
私的には常に周囲とは円満を心がける人。仕事については別人と語る我當丈。
「若鮎の巻」でも後継育成に関して仁左衛門丈の影響を強く受けている印象がある我當丈は、上方歌舞伎復興の公演についても触れていました。
昭和20年代後半から30年代は東京と違い大阪は「歌舞伎」と付くと客が来ない時代で、京都の南座がわずか、道頓堀はほぼ公演もない状態。仁左衛門丈はなんとかしなくてはと動かずにはいられなかったのだろうと語られていました。
復興のために立ち上げた公演が「仁左衛門歌舞伎」と呼ばれたのは、マスコミ側たつけた呼び名がきっかけだったのだそう。
公演をやるとなったその時には、「家族中がとにかく動きに動いた」と振り返られていて、仁左衛門丈だけでなく、ご家族が一緒になって取り組んだことだったと初めて知りました。
次男・秀太郎丈はお父様が大好き
次男の秀太郎丈は俳優座での自作の芝居公演ロビーでのインタビュー。自分で本を書く、というのもお父様の影響もあり、「親バカ」ならぬ「子バカ」というくらいに公私の仁左衛門丈が大好きだと満面の笑顔で明るく語られていたのが印象的でした。「この父の元で育ち幸せだ」と力強く言い切っておられました。
長男次男お二人とも「父はよく遊ぶし、よく食べるし、働く」そして「若い」とおっしゃられていました。我當さん曰く、京都の先斗町には親子孫三代で遊びにいったのだとか。今はどう受け止められるのかわかりませんが、昭和生まれの私には、役者さんはそんなイメージがあり、三代で出かけたとはどんな遊びだったのかのぞきたくなりました。
三男・当代仁左衛門丈の叱られた思い出
三男の孝夫丈(当代・十五代目片岡仁左衛門)は言葉少なめ。ほとんど怒られたことはなかったと長男の我當丈と少し違う印象を口にされていました。
一度だけひどく叱られたと話すのは、仁左衛門丈の襲名披露の舞台『時雨の炬燵』の治兵衛の息子・勘太郎役の時のこと。炬燵で寝ているフリをしているうちに本当に寝てしまい、キッカケで起きず、小春の富十郎丈におぶられてようやく起きた。子供のことで大した失敗とも思わなかったのだとか。
まだ十五世 仁左衛門襲名前のお姿。ご両親、長兄はじめご家族も揃っていた頃のファミリーのインタビューとあってか、今より弟というお顔。今と一見お変わりがない様子に年齢を感じさせない役者さんのすごさを感じつつ、最近度々拝見するインタビューでの重責を感じるお姿とは少し違って見えました。
娘・静香さんは「がまんの人」と語る
女優で娘の静香さんは所属する演劇集団「円」の楽屋で、仁左衛門丈を「がまんの人」と言い表しました。
稽古中などに水を頼まれてすぐに持っていけなくても、体が不自由で思うようにならず苛立つこともあろうに、周りに当たったりせずじっと待っている。待たせていることを承知でその姿を見ると、現実には無理とわかっていてもどこまでもついていって世話をしてあげたくなる、と笑います。我當丈が円満を心がける人とおっしゃったことに重なりつつ、娘さんらしい目線も感じました。
家族で仁左衛門丈を特集するテレビ放送を見ている時には、実際に目が不自由で画面をなんとか見ている仁左衛門丈の間近に付いて逐一映像の場面を説明する姿がありました。
家族で食事をする時に芸談や昔話、先輩役者のエピソードが聞けるのがうれしいと話されていたのは女優の道に進まれた一面。片岡家ではそんな風にたくさん話をしながら2時間半ぐらいかけて食事をしたのだそう。作品の中でも芸談を話される仁左衛門丈は「おしゃべりがお好き」と字幕が入るほどお話が聴けていたので納得しました。
奥様から見た仁左衛門丈
父親としてはダメですね、子供に面倒を見てもらうような人だと言って笑う奥様。戦争で住まいを移っていた頃、家に風呂はあるものの炊くものが無く銭湯へ行って帰ってくると、風呂で周りの人がそんなことを言っていたんですよと当時を思い出されて笑顔になりました。
その笑顔が消え複雑な表情をされる場面もありました。お身体の不自由があっても感謝の言葉で前に進み、家族にも弱音を吐かない仁左衛門丈。邁進する夫を尊敬しながらも、長い間見守り添われている人だからこそ見せる顔です。
最初に見た夫婦ご一緒の柔和な笑顔が高砂の老夫婦のように見えたのは、難を乗り越えてきたからこそ、そして相手を気遣ってのお姿なのだと思いました。キュッと膝の上の両手を握る仕草に支え続けてきた想いが見えたようでした。
父、十一代目 片岡仁左衛門
十三代目の父親は十一代目 片岡仁左衛門。仁左衛門丈ご自身が懐かしむようにお父様のことをお話しされていました。
途中に夭折された方もあるなどお子さんに恵まれなかったことから、仁左衛門丈の奥様が嫁いで来られるまで親子で川の字で寝て、夏でも体を冷やさないようにと寝ている間まで気にかけてくれていたそう。馬鹿な可愛がられようだったと話され、幼い頃の親子らしい満面の笑顔の貴重なお写真なども見ることができました。
証言からの人物像
周囲の方から見た仁左衛門丈のお話は、聴くほどに人物像を立体的にしてくれるようでした。
お子さん8人の10人家族で以前は親御さんも一緒に過ごされてた、とにかく仲良く見えました。役者一家だから当たり前のことかもしれませんが、仁左衛門丈のお仕事へのとてつもない理解があるチームのようです。大事にされた幼少時代とチームのようにサポートするご家族。そんな家族に囲まれていることも、仁左衛門丈の体の一部のように感じられました。
芸談と貴重映像で見る仁左衛門丈の探究心
弱音を吐かない「超人」
途中、芸談と並行して当時の舞台出演の状況が時折字幕で説明されます。
目の不調に加えて脳梗塞で休演され、その後40日ほどで復帰。公演日には記者会見をされます。その後にも休演と復帰。
現在ご活躍の役者さんも休演されることもありますし、ハードスケジュールであることは承知しているものの、ドキュメンタリーで語るお姿は80代も後半の頃です。舞台に立ってお客様に喜んでいただきたい気持ちが原動力でいらしゃることは言葉の端々から感じられましたが、思わず「超人だ」という言葉が浮かびました。
半分は分からなかった
「仁左衛門丈の芸談を聴く会」で芸談を語られるお姿が度々登場します。この会で語られるお話を記録されることも、この映画の目的ということで、様々な演目の一場面を語るシーンがありました。
楽しみだった部分でもありましたが、演目もわからず、お話についていくのがやっとの時間も。
それでも仁左衛門丈の芸談で一場面をまず聴き、その後に舞台での仁左衛門丈の映像で改めて役での姿を見る構成はわかりやすく感じました。
役者さん目線の台詞回しや細かな仕草こだわりをお聴きしてから舞台を拝見しているような贅沢があります。
中でも知っている演目の 『廓文章 吉田屋』や見たことがある『寿曽我対面』などは、少しでも物語を知っている分、芸談で語られたこだわりがより理解でき、格別に感じました。
『廓文章 吉田屋』伊左衛門
『廓文章(吉田屋)』の伊左衛門は初役11歳で77歳まで17回公演され、他の芝居でないほど多く演じられたのだそう。字幕には八代目の当たり役とありました。八代目は十三代目の祖父。父の十一代目から伊左衛門はすべて教わったといいますし、当代も坂東玉三郎丈との公演が有名な役で代々継がれている役なのだと知りました。
11歳当時の親子共演の廓文章のブロマイドを見つけました
(十一代目が伊左衛門、千代之助時代の仁左衛門丈は太皷持 ちやら八)
廓文章 新町吉田屋の場|上演:歌舞伎座 大正3(1914)年 11月
30歳、我當時代の伊左衛門役のものもありました
廓文章 新町吉田屋の場|上演:新宿新歌舞伎座 昭和8(1933)年 1月
仁左衛門丈が77歳まで歌舞伎公演で演じられた伊左衛門。その後特別に83歳の時に上演されたという映像も作品中で見ることができました。1985年の第12回NHK古典芸能鑑賞会での「廓文章」です。
紙子の衣装を着けた伊左衛門(仁左衛門)が本火が灯る燭台で濡れた袖をそっと乾かす、という一場面。二枚目の色気に実際のご年齢が見えなくなります。考えてみれば当代も今まさにその歳に差し掛かっているわけだ、と思いながらも、十三代目と当代が似ているとは感じませんでした。それぞれの代で型を継ぎながら自分の伊左衛門を見せてくださるのでしょう。
実際の舞台と、直前に聴いたご本人の解説が融合して心が入るような伊左衛門の姿。見ていて不思議な気持ちになりました。
「体で覚えた芸が写実になる」
そんな気持ちになった途端、「伊左衛門の二枚目は他の役と違うところがあって好きではなかった。二枚目は苦手だった」と仁左衛門丈の声。
子供の頃から覚えて演じているからか、二枚目は好かないけれど稽古で覚えたものだからできるのだとおっしゃるのです。それが
「四十代五十代にきて体で覚えた芸が写実になる」
という言葉で作品は締めくくられていました。
芸の事はわかりません。そして仁左衛門丈の境地には遠く及ばないとは思います。けれども、体で繰り返し覚えたことと人生経験が重なってくる年齢と考えると、本質を突いていて共感するところもあります。
この言葉に、舞台の上に立つ役者さんを見て心が震える瞬間、客席が湧く一体感や言い表せない感動を覚えたことを思い出しました。
日常と非日常のギャップ
一方で、舞台の上ではない仁左衛門丈のお姿は別人のように見える瞬間もありました。
「芸談を聴く会」へ向かう途中、奥様と娘さんに手を委ねて足取りもおぼつかない後ろ姿。目はよく見えず、歩くにも不自由があるとわかります。思えばそんな姿が当たり前のご年齢でもあります。
対して舞台では、足取りさえ違うように見えます。人に囲まれ芸談を話す様子もお元気で活き活きとされていて大きなギャップを感じました。
人気商売でなくとも人前というのは気持ちが違うものですが、仁左衛門丈は休演から復帰を果たした舞台で「お客様から受けた喝采に感謝した」と話し、「芝居を見て喜んでいただけている実感が生きる糧」とおっしゃる通り、喜びの源が上方歌舞伎の役者であることに直結している人。
ギャップを感じた後ろ姿、支える奥様と娘さんの手こそ、日常と非日常が逆転した役者の普段の暮らしともいえる気がしました。
上方歌舞伎を残す
自主公演は「生きるか死ぬか」
ここで、この映画で一番知りたかった上方歌舞伎の復興公演のことに話を戻します。
我當丈のお話に出たように、私がいうところの上方歌舞伎の復興公演は「仁左衛門歌舞伎」と呼ばれた公演です。仁左衛門丈ご自身が東京での歌舞伎公演にも出演していたことから、上方歌舞伎の現状との差を知る立場でなんとかしたいと奮起され実現された公演です。
この時のことについて仁左衛門丈はこんなお話をされていました。
上方歌舞伎を自主公演でやろうと決めた時、家族も賛成してくれたが、何しろお金がかかるし、お客さんが来なければ大変なことなので、家を売る覚悟、一か八か、生きるか死ぬかの覚悟だった
「私財を投げうってでも」という気概は、当時を思い出して語られる様子からも感じられました。
公演の内幕
普段は聞けない公演の準備段階の内情も、仁左衛門丈は率直に話してくださっていました。
「私財を投げうってでも」の覚悟で動き出した仁左衛門丈に対して、松竹の関係者は「当日が3枚〜5枚(売れる)ぐらいなものじゃないか」と言っていたといいます。
それほどに当時の上方歌舞伎は「公演に関心を持たれないだろう」と思われていたことを表していると感じました。
そんなことを言われるような状況で心配したものの、実際売り出すと「初日に70枚ぐらい売れたよ!」と家族から聞いてまず安心をしたのだとか。そのあとも予測に反して売れていき、対応していた奥様のお母様も「今日は〇〇枚」と数えていたといいます。ご家族で売っていたこと自体、今の感覚では驚きです。
それでも公演は8日間16回公演。熱心に心を配り、マスコミも話題に一役買ってくれるなどして、最終的には盛況で公演を迎えられたといいます。「心を込める大切さ」を実感したといった言葉もあった気がします。
公演の演目のことも話されていました。
自分でも不況でやりたい芝居ができず残念に思っていたことから、皆でやる気になるような形にしてお客様にもわかりよいものを選ぼうを思い、やりたい演目を通し狂言で組む形にしたといいます。
あまり見る機会がない方には、「歌舞伎ならお馴染み」のお約束や演目ばかり出すより流れで見ることができて良かったのかもしれません。
公演を決めた時、出演を依頼した役者や道具方などの仲間の人たちがまず喜んでくれたのだとか。「少なくていいから」とお金は二の次で協力してくれたといいます。当時は公演と公演の間があり過ぎて、再会すると「生きてたかい」と言葉を交わすような、今からは考えられない状況だったそうです。
結果、公演は盛況となったため、赤字にならず家も売らずに済んでお金もできたので、協力してくれた仲間に予定とは別に配ったそうです。正真正銘の大入りだったのでしょうね。
家を売る覚悟のことは奥様のインタビューでも話される場面がありました。もう過ぎたことであるにも関わらず、あのキュッと膝の上で指先に緊張が出る様子が見えて、当時賛成した協力したとはいえ、妻としての覚悟も要ったことだろうと思いました。
分業になるほどお金がどうなっているかわかりにくいもの。考えてみれば16回の公演を家を売ればできるかどうかも想像がつきません。本当に賭けだったのだと改めて思います。
初日の客席
そして公演初日。
開幕前に、幕前に黒紋付で挨拶に出ていく仁左衛門丈。いっぱいのお客様の拍手歓声で出迎えられたといいます。あの光景は忘れられない、と昨日のように話される仁左衛門丈の様子に、当時を想像しきれない中でも偉業を成し遂げられたことを実感します。
その時の晴れ姿も、思いがけず作中で見ることができ、実感が増したところもありました。
「仁左衛門歌舞伎」から「若鮎の会」そして現在
第一巻「若鮎の巻」では若鮎の会の若手を指導する姿に仁左衛門丈の上方歌舞伎への想いを感じましたが、今回はその源流を見た思いです。
年月を経て穏やかに話されていましたが、「仁左衛門歌舞伎」の公演を開催するにあたっては、成功体験だけではないご苦労があったことと思います。仁左衛門丈のみならず、周囲の方も大きなご経験をされたことがわかりました。
現在は上方歌舞伎が演目、役者とも目に触れないということはありません。
「若鮎の会」もその後形を変えて後継育成の活動に繋がったといいます。
それは仁左衛門丈が繋ぎ、その後を繋いだ人たちが出してきた結果でしょう。
記録されていることが知られ、観る機会が増えてほしい
このドキュメンタリー映画は、最初の企画ではこのような長編の予定ではなかったといいます。
仁左衛門丈とご家族番頭さん、改築前の南座など、貴重なお話と映像の数々が記録されていたこと、それを見ることができたのは幸運でした。
ですが上映は東京のみ。先日道頓堀の松竹座が閉場したことを思うと、この貴重な映画は大阪や京都、上方の方にこそ見てほしいとも思えました。
まとめ
仁左衛門丈の人と芸、支えた人達を記録した作品
上方歌舞伎の復興に動いた当時の事が知りたくて見た「人と芸の巻 下巻」
「芝居の蔵」と称される知識と探求心、その情熱を支えるご家族、番頭さんのお話と仁左衛門丈ご自身の芸談を存分に聴くことができ、貴重な舞台映像と記録写真まで紹介された作品でした。
そして想像を超えた「仁左衛門丈のドキュメンタリー映画」といえる1本でした。
映画 『歌舞伎役者 片岡仁左衛門』は全6巻あります。通えさえすればコンプできる。行けないから絞ろう。そんな調子で3本ぐらいは見るつもりでしたが、感想を書いてみるとそれさえ浅はかだったと思います。
2本見て感想を書くので精一杯。でも書いてみてよかったです。
「若鮎の巻」「人と芸の巻 下巻」の2本を見ただけでも、上方歌舞伎再興のために動き進んだ道筋が見えてくるような内容で知りたかった仁左衛門丈でした。役者である息子さん達も、それぞれに継承して後継を育て、芸を磨き、現在があることが感じられたのもよかったです。
仁左衛門丈の魅力が制作陣に伝わり、長編映像での記録に繋がり、映画作品として残されたことは貴重です。記録されていることの大切さも改めて感じました。
欲をいうならば、映画館上映の機会や見る手段が増えるなどして、こういった日本の芸術文化に関わる作品が在ることそのものが忘れられないように仕組みができることも大切だと思いました。