鏑木清方は国宝の《三遊亭圓朝像》を描いた人
鏑木清方は美人画の名手としても知られた画家ですが、国宝・重要文化財の《三遊亭圓朝像》を描いた人でもあります。落語が好きな方なら目にしたことがあるかもしれません。
父親が戯作でジャーナリストでもあった条野採菊。圓朝の速記を連載した「やまと新聞」を創刊した人物でもあり、圓朝にゆかりの深い人達ともつながりがありました。清方も幼い頃から圓朝と触れる機会があった人物ですが、この《三遊亭圓朝像》は1930年(昭和5年)に第11回帝展に出品された作品で清方が50代に入ってからの作品です。この作品にはこんな制作余談があります。
圓朝さんは私に画道にはいれと勧めてくれた人で、私が一家をなしたことを知ったら定めし満足してくれたろうと思う。何がな報ゆることをと、碑を建てる代わりに、故人が勧めてくれた仕事でその人の職分の姿を写し、世に残そうと思いついたのが機縁となってあの絵ができ、引き続いて肖像画というものに前々思いもよらなかった面白みを見出すようになったのであった。
※一部現代表記に修正
引用:山田肇 編『鏑木清方文集』1 (制作余談)「肖像画」より,白凰社,1979.8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12705898/1/72?keyword=%E4%B8%89%E9%81%8A%E4%BA%AD%E5%86%86%E6%9C%9D%E5%83%8F (参照 2026-09-07)
鏑木清方の随筆『明治の東京』
ある時鏑木清方の随筆に圓朝との逸話が書かれているらしいことを知り『明治の東京』を手にしました。
作品を見たこともあり、落語に親しみ東京に暮らす私には清方の随筆はとても興味深いものでした。
現在歌舞伎座がある木挽町に暮らしていたこともある清方は、銀座京橋あたりの明治の風情を書き残しており、寄席や芝居を見に行く様子などは街に親しみを覚えさせてくれます。
圓朝の旅に同行した時の話では、取材をする圓朝と写生をする清方が夜一つ部屋で各々その日を振り返った思い出を書き残していたり、困窮した時代や江戸っ子性分など、日本画の大家のイメージや美人画の作風からは知れなかった部分が垣間見えて親しみを覚えました。
清方の幼馴染・富太郎
随筆『明治の東京』には木挽町に暮らしたころに一緒に芝居を見に行ったり家を行き来していた幼馴染が出てきます。藤浦富太郎です。
鏑木清方の父親はやまと新聞を作った条野採菊、山々亭有人。
藤浦富太郎の父は大根河岸の三周、藤浦周吉。三遊亭圓朝を長年支援し、圓朝他界後には名跡を預かった人物です。
考えてみれば双方とも三遊亭圓朝と所縁が深い家です。幼馴染であっても不思議でもないわけですが、双方の一家が親戚づきあいをする間柄だったことは想像したこともありません。この二人の関係に、藤浦家と藤浦富太郎に強い関心が芽生えました。
藤浦富太郎の名前は知っていた
三遊亭圓朝や三遊塚を調べると突き当たる資料には、この藤浦富太郎氏の名前は度々出てきます。
でもそれは昭和以降の圓朝研究に関する資料の中で見ることがほとんど。三遊亭圓朝の名跡を預かった三周(藤浦周吉)の後継者のお名前であって、後年圓朝研究をされた人物という認識でした。幼い頃を想像することがなく、圓朝の後押しがきっかけになり十代で画家の道に進んだ鏑木清方との交流があったことを知りなんだかワクワクしました。
京橋大根河岸跡の石碑に



清方の随筆に触れた後、銀座に出かけたついでに明治時代を思いながら木挽町から京橋まで散策してみました。
京橋があった場所に遺されている橋柱など見て回っていると、高架を抜けたところにある石碑を見つけました。その石碑はそこが京橋大根河岸青物市場跡であったことを記したものです。


道路に面した方に大根河岸青物市場の由来と歴史が書かれています。碑文から建てられたのは昭和36年6月。読んでいくと最後の部分に「藤浦富太郎 撰 」とあり、江戸時代から昭和初期まで続いた大根河岸の由来についての碑文を作ったのは富太郎氏。圓朝の名跡に関わる人としての知識しかなく、かつての大根河岸を語る言葉を石碑に綴る程の存在だったことに驚きました。
裏側にはこの記念碑建設資金寄付者130名にも及ぶ名前と屋号が並んでおり、設計にも藤浦富太郎の名がありました。石碑建立に深く関わっていたのかもしれません。


大根河岸の三周
「大根河岸の三周」の名は知っていましたが、あまりにも知らなかったことがわかりました。京橋の大きな石碑に撰文があることも知らなかったほどです。清方の随筆で京橋周辺のことも読んでいただけに、石碑に名前を見つけたことは衝撃で、大根河岸の三周、藤浦周吉・富太郎親子にさらに関心を持ったことはいうまでもありません。
鏑木清方の随筆を読んだ後に藤浦富太郎にも随筆があると知り早速読んでみました。
三周と呼ばれた父親の周吉氏について、富太郎氏について、圓朝との関わり、三周としてのご商売や大根河岸のことなど。随筆の中には圓朝の名跡を預かった家というだけではない興味深い話がたくさん残されていました。
その話はまたそのうち書けたらと思います。












































































