直子の部屋

笑ったり泣いたり踊ったり暴れたり推し事したり。

刺激を入れない

「刺激を入れない」

久しぶりに寝たいだけ寝た。
時間にしたら8時間ぐらいだけれど。

寝方も時間もしばらく休まってない感が続いていた。かといって早く起きてしまうわけでもなく、勤めに出たくないのが如実に出ていた。内側で子どもがイヤイヤしてたんだろう。

昨日は暖かく風も穏やかで、椅子が一脚置けるくらいの我が家の縁側スペースで日光浴をして過ごした。少し風が出てもブランケットを持ってきて膝にかければ平気で、少し暗くなるまで過ごした。
日光浴がとても良いと感じて、特に寒い時期は習慣にしたいと思ったのは仕事が出来なくなって療養した時期。わずかな時間ひとりで過ごすならなんとか外に出られる、という頃。外に出る訓練をしていた。身支度をして図書館へ行き、読めそうな本を借りる。行き帰りの途中で静かに過ごせる日向のベンチで本を読める分だけ読んだ。眠りについて書かれた本で日光浴の効果を知った。気持ち良いだけでなく、鬱々とした気持ちを解消するメカニズムがある。

陽が落ちてからおずおずと身支度をして買い物に出かけた。夜の散歩が少しウォーキングになり、健康に良いとは言いがたい距離でも歩けば体が疲れてくれる。

夜も特に寝る時間を決めない。決めても守らないし、今日ものんびり出来るのだから。そう思うとストレスはかからない。おひとりさまの特権ともいえるこれも、自分の中に厳しい監視役が出来ていると変に家族より痛めつけてくる。ハラスメントしがちなのは案外自分だ。

今朝も起きてはトイレに立ったりしてまた布団に戻る。さて起きようか、と思ってもカーテンも開けずしばらく薄暗い空間でぼーっとする。部屋の電気をつけず顔を洗い、その気になるまでスマホも見ない。音が出るものも点けない。体がうんというまで。気が向くならそのまま日の光だけで過ごすもよし。

出掛けもしないで部屋の灯りもつけない
これは案外不便でもなく、刺激に過剰反応してしまう時にはむしろ快適だと気づいた。
自分がどうしたいのか、どうしたくないのかを五感に委ねて確認できる。日常に、出来るタイミングでやれば良く、コストもかからない。
ヨガに行ったり、瞑想したり、断食道場やデジタルデトックスのイベントに参加するのも仲間や充実感が得られて悪くはないけれど、結局よく観たい(/看たい/診たい)のは自分のコンディション。
案外日常は非自然に囲まれていて、体は自然ではない環境を必死で受け入れていたりする。別に嫌いなことばかりではない、高揚も含めてエネルギーを費やしている。

日光浴はずっと欲しているけれど職場環境でそれを得られる場所には辿り着けない。
職人仕事だと午前10時と昼、午後3時に休憩があって、外の資材の上で昼寝している光景が羨ましかった。肉体労働だから必要ということでもなく、むしろデスクワークの方が必要に思う。頭を働かせて体は疲れない、日が昇ってる間ずっと屋内で過ごす。健康のための運動は各自で管理して、では気が病む人が増えるのが自然にも思える。

最近ブログを書く方法も変えた。
テキストで書いて貼る。
一度読み返して直す以外はそのまま出す。

機能を活用して、いろいろ引用したり体裁もよくしたい、と思うとそもそも書くのが億劫になる。やりたくなくなる。
それこそ書きたいことがあって高揚していれば苦にならないけれど、そもそもまとまらない長文をさらに読み直して書き直して途中でやめたくなる。

完璧主義癖はまだまだ顔を出すけれど
雇われ仕事でもないのになぜそこまで?と思い返せば、ビジネス講座だの売れる◯◯だのでブログを読む人が求めていることとして入ってきた情報。
受講するとすごい!そうなんだ!あとはやるだけだね!となるものの残念ながら続いたことがない。内容の良し悪しではなく、多分それが活かされるのは、まず自分で納得いく生活時間が増えてから。

情報は最大の刺激物。出会うためには入れるのも必要だけれど、何を残すかが大切。
良いものを残して不要なものは手放す。
楽しく幸せな言葉や光景に喜んだり満たされたいとしたら、それが入る余白が要る。
そのためには部屋に散らかる物と同じように捨て方や受け流し方手放し方、片付け方を身につけておきたい。
これだって毎日でなくていい。すぐ習慣にならなくてもいい。一旦溜まっても構わない。出来る時集中でも。出来る理由があれば強い。なくても忘れても、今日みたいに上手くいった時を思い出してやり直したりするから。

途中から頭の整理になってしまった。
陽が高くなったからかもしれない。