とある出版社のメルマガ。
今の仕事は一生心からやりたいことでもなく、大好きと言える仕事をしてくらしたい、という読書の質問に、事業が注目されて執筆者に転身した方が答えていた。
仕事はやってみるまで本当に好きかはわからない。という答えに共感してリンクから続きの音声を聞いてみる。
好きではなかった、自分が思い描いていたのと違ったなら、目の前の仕事でとにかく喜んでもらおうと考えるようになったという。
お客さんや上司、会社が望んでいる想定値を超えるような仕事をし続けていれば道は開ける、一生懸命にやっているうちに好きに気づく
そこまで聞いて聞くのをやめた。
期待以上がわかれば苦労しない。
望んでる想定値を測るのが苦手だし、喜んでもらえて良かったね、ばかりではなかったと体が言ってる仕事も多々あった。
成功した人と自分が違うと言ってるわけではなくて、喜ばれたくて背伸びしたり犠牲的に働く人には良い成長をしているのかつぶれそうなのか見守る存在が必要だと思ってる。答えた人もそんなことはわかってると思うけど、後の言葉が入ってこなくなった。
身の丈の認知が頭と体でズレていると、期待以上にやって喜ばれて褒められていても「足りない」と思うんだ。褒める言葉が世辞に聞こえて素直に受け入れられない。
私でいうなら、自分の中にいる厳しい顔した母のような自分が自分を認めない。喜んではいけないと。馬鹿にされないよう気を抜くなと。
頭の中の自分がしているのは、期待ではなく
不信だと思う。自分が信じられない。
何を信じられないかといえば、相手の期待値を理解して動けているか、に尽きるだろう。
喜んでもらうための行動とは真逆だけど、直しても直しても戻るクセ。自分への労いや癒しが足りないのかも知れない。今は環境も大きい。
母はある頃から感情的に怒るようになった。亡くなる前に子育て時分の話を聞いて、当時の苦労を知った。大変だったんだなと理解はしたものの、子供の頃の記憶は残る。その怒り方に近い人に会うと固まるか逃げだ。今はまた平気でいられなくなって困ってる。
情が面に出まくる人だったが、世間に出てやっていけるようよく躾けてくれた人でもある。毒親ではない。大切な母だ。頭の中のは自分。
それでも望んでる想定値を測るのが苦手なのは先天的なことに併せて、感情的に爆発する人の側で育った不全はあると思う。
喜んでもらいたい人が目の前にいて、のびのび働けて、見守ってくれる、相談できる仕事仲間がいる環境が欲しいんだなぁと思う。
好きだと思って始めたした仕事だったのにそうでもなかった、は確かに数々あった。仕事を選ぶ条件の順を間違えているなぁと思いながらも、会社に雇ってもらって働くとなると好きな仕事も安心できる環境も、引き当てるのは至難の技。
雇われようが、ひとりで仕事しようが、独りで完結できることなんてないんだ。
喜ばせたい人達の顔が浮かんだら、その中に必ず自分を入れよう。
この数日、久しぶりに日向ぼっこ出来ている。
体を壊して働けなくなった時、冬は陽を浴びる時間を作りたいと本を持って散歩に出たものだ。
今は仕事に出ることはできるけど本も手につかないし終日建物の中にいて、疲れて散歩もしないで帰っている。体がいうこときかなくなるわけだ。
続けたかった習慣をやめずに出来る暮らし方をまた思い出す時期に来た気がする。
記事を公開してみると、やっぱりスマホアプリからだと改行が気に入らない。コツがあるのかな…