直子の部屋

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圓朝が静岡興行した寄席さがし その2 愛共亭みつかりました

先日からの自由研究。

 

entsunagi705.hatenablog.com

実はあれから調査はドラマティックに進みました。
10日も立たないうちに愛共亭があった場所を見つけたのです。

思いがけない展開に大興奮!
同時に調べるために手をつけた資料から見える明治が想像を超えていました。
国の作り直しが取り組まれていた時代。それが御一新。
有無を言わさず新しいものが入ってくる、ルールが変わる。
そんな時代を現実に見ていた人達として静岡興行に関わる人物を見ると、キリがなく興味が湧いてしまいました。経過をうまくお伝えする力がないのが残念で仕方ありません。

経過や成果を綺麗にまとめるのは難しいと感じましたので、今回は愛共亭について判明したことを基に、一部推測を含めて「圓朝の静岡興行」を書いてみたいと思います。

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明治15年に愛共亭は開館しました。場所は車町。
静岡の駿府城跡から浅間神社の参道へ進む商店街入り口の鳥居と旧東海道の本通が交わる辺りです。
現在の静岡駅からは離れますが、鉄道はまだなかったので馬や牛が引く車に縁が深い土地の名からも人の流れが多くあったのかもしれません。

とはいえ明治12年コレラが流行した後、静岡では15年にもコレラが再流行しています。東京の寄席では萬橘のヘラヘラ踊りが人気を博したといいますが不況も続いていたようです。

明治17年 圓朝の速記本「牡丹燈籠」出版
明治19年 やまと新聞が創刊号から圓朝「松の操 美人の生埋め」連載。挿絵は年方。好評を博す
明治21年3月6日 慶喜浮月楼から西草深(現在の英和女学院付近)に移住
明治22年2月 静岡駅の鉄道運行開始、4月静岡市制施行 駅前開発に伴い大東館開業(現在の葵タワー付近)

明治24年6月 圓朝寄席を退隠

明治25年静岡市内で数度の大火があり繁華街の中心部も罹災しています。市役所や新聞社、劇場や複数の寄席が類焼した記録があります。その中に愛共亭の名前はみつかりませんでしたが、翌年明治26年7月1日に吳服町四丁目新道に移転開場した記録が『静岡市史余録』にありました。

明治26年は1月2日に渋沢栄一に同行した圓朝が静岡で慶喜公に会い、その年の7月と翌27年1月に新版の草双紙を献呈しています。

明治28年に発刊された『静岡県名勝案内』によれば、愛共亭は追手町にあると記載されています。同年に発刊された『豪家記入静岡市精細地図』によると、愛共亭の場所は現在の呉服町、マクドナルドの静岡市役所側辺りとなっていますが、地図上では追手町(大手町)となっているようにも見えます。
このちょっとした違いはまた別の機会に書けたらと思います。
『静岡中心街誌 本編』によれば、石上利兵衛という人物が愛共亭の席亭のようです。

 

明治29年11月20日 寄席愛共亭は「東京演藝會」と題して興行を打ちました。
当時のビラを寄席文字の橘右近先生が発見して圓朝忌(8月11日)に全生庵へ奉納されたのが昭和42(1967)年のことだったそうです。「先年発見したもの」と仰られていたようですので、初代立花家橘之助師匠から受け継いだものとは別なのではないかと思われます。
今から56年前です。

その後、このビラは江戸東京博物館で「橘右橘寄席コレクション」として所蔵されました。デジタルアーカイブで見ることができます。

寄席ビラ(三遊亭圓朝) 江戸東京博物館デジタルアーカイブス 

ビラにはこう書かれています。

東京演芸会        
立花家新橘
竹本叶
鶴澤大三
三遊亭圓花
全亭武生

三遊亭圓朝
演題
欧州小説 松乃操美人の活埋

東京清元節
三府五港のうかれぶし
花と古今の小唄節
立花家橘之助

右之他前席トシテ口外数名出勤仕る        
        シズヲカ ビラ豊
当十一月廿日午後四時ヨリ風雨共開演 愛共亭    

また、ビラの下には広告として席亭の力が入った文面が。

【演芸開場の広告】
各位ご贔屓の庇蔭(ひいん)に依り日に増し繁盛仕り外聞旁難有奉存候文物進化の今日唯安きを愉み居候は本意にあらず尚一層の勉強を以て何をかな御耳新き技芸を御聴に達し平素愛顧の御恩に報ひ奉らバやと苦慮の末今を去る十年前当市に於て掲載を博せられし日本落語家の泰斗(たいと)三遊亭圓朝氏の出席を乞ふに如すと此日出京して氏に計りたるに氏の曰く圓朝も近来は病身となり東京の寄席にすらも出勤せざれば地方稼ぎの事は許し呉よと固辞して應ぜず是に於て予て(かねて)当市の御贔屓御取立を蒙り(こうむり)たる氏の高弟立花屋橘の助(立花家橘之助)と来静の約を結び再度氏の許を訪ひ
(とぶらひ)橘の助御取立の口上を兼て来静あらま欲しと再依頼に及び漸く(ようやく)承諾を得候て橘の助始め門弟引連れ来静仕り当る十一月廿日(11月20日)より右一座を以て興行仕り候間開場の当日より賑々敷く御来車の程伏て奉希候以上

明治廿九年十一月 日

     静岡市呉服町四丁目 愛共亭 謹白

静岡市函右(かんゆう)社印行〉

ちなみにこの広告を印刷した函右社も『豪家記入静岡市精細地図』にあり、愛共亭のすぐ近くだったことがわかります。

また、席亭は質の高い芸を見せたいとの思いから圓朝師匠へ打診していたことが垣間見えます。”十年前当市に於て掲載を博せられし”とありますが、明治29年の10年前というと明治19年。やまと新聞で圓朝の連載が好評を博した時期です。”当市に於いて ”が解明できていませんが、ビラのネタ出しは「松乃操美人の活埋」つまり連載された「「松の操 美人の生埋め」でした。木戸銭については書かれていませんが、『圓朝全集 十三巻 圓朝遺聞』に書かれている「茶店の婆に惠む」の逸話が愛共亭での興行の後のことだとすると、明治29年当時三銭から高くて十銭だったという木戸銭に対して ” 木戸二十五銭、席料五十銭といふ高価 であったにも拘らず非常な大入であった。” ということに。東京で寄席を降りていた、けれども出版で名が広まった人物としての圓朝を表す逸話です。

 

またこの興行については、東京の中央新聞、報知新聞に記事がありました。

明治29年11月18日(水)中央新聞によると

圓朝の地方行き
三遊亭圓朝は今度静岡地方よりの招を受辞するに途なく今十八日門人の橘之助 武生 圓花、竹本叶、同大三 他二三人を引連れ出発同市呉服町愛共亭に於て一週間出演すると云う又予ねて本年春以来同人が各古寺院に附き取調べ居りし日蓮記の改正増補はいよいよ此程出来上がりしと

とあります。

翌11月19日(木)報知新聞によれば

圓朝の静岡行
落語家三遊亭圓朝は先頃より調べに掛かり居たる日蓮の伝記蓋しく?分りたる折も折静岡市の贔屓より是非にと頼まれ同市呉服町の愛共亭へ昨日より出席したりと一座は橘之助、武生、圓花、竹本叶、同大三等なり

とありました。

若干日程のズレがありますが、大所帯で静岡に向かったわけです。旅や宿泊の感覚はもちろん今とは違うとは思いますが、一座で向かうのは今でもなかなかないことです。駅前の大東館は明治天皇行幸で宿泊された宿。そこへ一週間泊まり、興行していたとは驚きました。粘り強く口説いた席亭、間を取り持ったと思われる立花家橘之助師匠のおかげで実現したものと思われます。

途中時系列で圓朝師匠、慶喜公と静岡に関する事柄を入れましたが、書き切れませんでした。愛共亭の場所についても、静岡の町割の変遷に関わる発見もありました。長くなってしまったのでまた次回以降に書いていけたらと思います。

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・参考にした資料について、記載の不足はできるだけ早く補いたいと思います。

・関連する資料へのリンクは配しておりますが、ビラや地図は転載や複製が叶わない資料で掲載いたしません。

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自由研究にあたり、先人の資料の数々に出会えて、記録を残していくお仕事に感謝が絶えません。またそれを検索する、閲覧する方法の進化がすごい。学生のころには想像できませんでした。今後のお金のかからない遊びとして自由研究続けたいと思いました。
資料を整備してきてくださった諸先輩にも感謝申し上げます。