直子の部屋

笑ったり泣いたり踊ったり暴れたり推し事したり。

『東京人』+『寄席切絵図』=落語界今昔100年

静岡の寄席話からちょっと脱線して
午前中に圓生師匠の『寄席切絵図』の神田の項を読む。
東京の「入道館」のことが書かれていたからだ。

entsunagi705.hatenablog.com

 

神田には白梅亭、立花亭という有名な寄席があったとか。
噺家が団体を結する前からの話が書かれていて興味深く読んだ。

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時間を空けて3月号の『東京人』落語特集を読む。
まだ読めていない記事を楽しみにしていたからだ。

読み始めるとなんだか繋がってくる。

既に読んだ記事の写真には白梅亭の文字や立花亭も出てくる。
立花亭の写真のキャプションには圓生師匠のエピソードもある。

静岡の入道館の話でよく知らないと書いた人形町末広も
なんでか高座側も客席側も演者と共に写真が出ていた。

 

『東京人』で現代人が語る話と
圓生師匠が脳内で語る『寄席切絵図』の話が繋がる。

落語は知る度繋がってくる面白さが噺の外にもあるのが楽しい。
芸名や師弟関係で繋がった人達の名前が歴史になって残るからかもしれない。

 

『東京人』の落語協会100年特集

「最近落語に興味を持った人は果たしてこれをどう読むのだろう?」
と思いながらも、個人的には自由研究と地続きで楽しい。

演者のインタビューや名人上手の話だけでなく
さまざまな目線で取り上げられた記事が読み応えあり。

落語協会が設立される前夜から現在までの流れがわかる。

噺家と寄席が落語協会を作ったことには
それが必要になった時代があったから。

寄席や高座や生活を守るために
束になって工夫して先人が乗り越えてきた100年の道。
その先に楽しんでいる今がある。

とはいえくっついたり離れたりが度々あり
組織でなく人で見えるのもこの世界らしい。

落語協会創立100年を契機にしたことで
当時の新聞記事や昔の貴重写真も載っていて
お囃子さんや色物の歴史も再確認される動きがあるようでうれしい。

寄席囃子は国立劇場の養成事業になった経緯は前から知りたかったし、
太神楽のことももっと知りたい。

寄席文字の橘右樂・紅樂のお二人は以前から気になっていた方々だ。
静岡の圓朝興行のビラを見つけた、
橘右近コレクションに関わる方だと耳にしたことがあったから。

右樂さんの記事は去年調べたビラや寄席文字について
より立体的にわかる記事があり興味深く読んだ。

まさに「どっぷり、落語!」の一冊。

月刊「東京人」 2024年3月号 特集「どっぷり、落語!落語協会創立100年」 [雑誌]

月刊「東京人」 2024年3月号 特集「どっぷり、落語!落語協会創立100年」 [雑誌]

 

『寄席切絵図』で知る関東大震災前後の様子

神田連雀町の白梅亭は三遊びいき、
新石町の立花亭は柳派びいき。
その前は逆だったこともあったらしい。
縁のあった大看板で状況が変わることがあったようだ。

圓生義太夫語りの頃から出ていた白梅亭の席亭には
なにかとかわいがってもらっていたそう。

それが大正六年に演芸株式会社が出来て
対抗して睦会が出来ると寄席も両派に別れてしまい
白梅亭は睦会派になり圓生師匠はしばらく出る機会がなくなったとか。

その後大正12年9月 関東大震災
翌月には東京落語界が団結し落語協会を創立。
(このあたりは『東京人』でぜひどうぞ)

当時は月三回、興行の2日目(2日、12日、22日)に
「顔直し」という寄合いをして初日の不都合を調整していた。

これをしばらく白梅亭でしていて
都度200人近くの芸人が集まって客席で手直しをしたそうだ。
想像しただけで大変そう。

しかも寄合いに行くと くじだの芝居の切符だのと
つきあいに十円位かかってつらかった、とは圓生談。


東京都内の寄席は大正10年で15区90軒余り、郡部40軒で計130軒
関東大震災後の大正15年で15区内96軒、府下89軒で計185軒。
昭和7年までは東京市は15区、品川などは府下の郡部に入る)

この件数は落語色物席だけでなく
講談や浪花節の席も含まれているとはいえ
数件の掛け持ちは当たり前。売れっ子は座敷もあっただろう。

移動も通信手段も今と違うことを考えると
必要とはいえ200人を取りまとめるには大変な労力。

掛け持ちや脇の仕事は今と同じに思えるけれど
寄席の数と演者の人数のバランスも今と全く違う。

客入りや収入のことは演者と寄席の考えはそもそも視点が違うはず。
しかも復興と同時進行で。
ひとつひとつ打つ手を積んで。
創成期だけでなく100年の間に揉めないわけがない。

震災や戦災の計り知れない体験を越えて、
今の演芸と寄席の形があることを
コロナ禍の経験で多少ではあるけれど実感を持って読めるのは間違いない。

私自身は寄席育ちの客ではないけれど、
日々研鑽の場としての定席を維持できない環境になったら
消える可能性が高い存在はあるだろうと想像する。

一度消えたら他の伝統同様に技が消える。
芸や技を支える道具も人知れず無くなるかもしれない。
数年前に三味線修復の技術継承が危ぶまれたように
成り立ちと今を知ると自然復活は難しいものがある。

危機感に縛られるのも演芸らしくないけれど
その存在が知られていくことで関心を持つ人が増えるように
落語と演者とその周りを支える人達も
もっと記録が残されていって欲しいと思う。

 

100年後の演芸、想像もつかないけれど
何を残すか、何を手放すか了見が肝心だ。

 

おまけ

落語協会の前の時代も気になっていたところ
先輩記事に興味深いものを発見した

松風亭日乗: 大正時代の東京落語界 ~演芸会社と睦会~

落語会で揉めた、というとまず浮かぶのは
昭和に圓生師匠の脱退で起きた分裂騒動かその後の談志師匠の脱退。

定席の数が少ない中で定席に上がれなくなった人達は
別の場所に高座を作っていく流れを作ったけれど
震災のようなことが起こる前に組織化を狙った理由と
導いた船頭、覆した人達のことが知れて納得。

鈴本の存在感も含めてなんとも落語界らしい。

 

昭和の分裂騒動は推しが二大協会に属していないこともあり
高座のネタで弄られるのが割と笑えなくて
円丈師匠の本も持っていながらしっかり読んでいない。

その弄りが感情的な揉め事に聴こえて不快だったのだが
案外商売で考えれば全うな判断もあるのを
面白おかしく話す人達の言葉で聞くことで誤解していたのかと思う。

円丈師匠がどんな気持ちで書いたかは別として(笑)
話題性を持たせるために、好みでない書き方で掻き立てる手法はある。
話題そのものより囃し立てる人がいるのが不快な場合もあるし。

ただこの数年で東京四派と上方の関係性も
ますます和やかに感じられるようになったし
流れがわかることは楽しいのでいろいろ読んでみたい。

紹介したブログの中に出てくる『図説・落語の歴史』も読みたいし
上野鈴本のHPにある「寄席主人覚え書」も以前より楽しめそうだ。

 

図説 落語の歴史 (ふくろうの本)

図説 落語の歴史 (ふくろうの本)