直子の部屋

笑ったり泣いたり踊ったり暴れたり推し事したり。

「圓朝物」は「落語」なのか?の話題から

NHKラジオの「小痴楽の楽屋ぞめき」を楽しく聴いた。

放送の後半に隅田川馬石師匠の話題がでた。寄席のトリで「圓朝物」を掛けている師匠に対して、小痴楽師匠から「圓朝物は(自分がやりたい)落語じゃない」という言葉が出ていた。きく麿師匠も同じだということだった。

小痴楽師匠が言うように、この言い方を言葉通りに受け取る人には誤解を与えるかもしれない。でも演者の中にも客席側でも同じように「笑ってほしい」「笑っていたい」から落語会に居る人は多いと思う。私も「笑っていたい」から落語に足を運ぶひとり。何人もの人情噺を寄席で聴きたいとはあまり思わない。

それでも、生の落語を聴きくようになった数年でも落語がそれだけではないとわかる。

数年でも、時が経てば演じる方も聴く方も歳を重ねる。時代も流れていく。

災害や事件のニュースを耳にして笑えなくなっている時、家族を亡くした時、笑いは欲しいけれどいつもは楽しい落語で目が座ってしまう時もある。少し前に猫を亡くした時は、猫が出てきても、死ぬ話が笑いになっていても、ほんのわずか暗い感情に触れてしまうと気が逸れてしまうことがあった。

最近も物騒なニュースは多いが、陰気に陰気を重ねて良いことはない。嫌な気持ちの時に嫌な言葉を聞けば感情が暴れる。かといって、気を落ち着かせたい時は陽に陽が良いとは限らない。案外落語で聴くうちにそんなことに気づかされることがある。他人の言葉の力と、話芸の力だと思う。

圓朝物は明治の寄席主任(トリ)仕立て

圓朝が作った噺は、明治という時代をかなり色濃く反映している。

三遊亭圓朝に興味をもってからも、圓朝作品を特別に聴きこんだり勉強したわけではないけれど、明治という時代がやって来て西洋化と御一新で突き進み、制度によって芝居は歌舞伎になり、落とし噺は落語になった。寄席の規制も圓朝の芸風に影響を与えたことは間違いないだろう。幽霊が否定され使われ始めた「神経」という語を「真景」とした落語や浮世絵が生み出された頃、江戸回顧の波がやってくる。

江戸が無くなった以上、また世界的な動きや貿易、近代化を始めた以上、完全に元に戻すことはできないが、あまりの変化のスピードに追い付けず、昔に戻りたいという人の気持ちを反映して生まれたのが人情噺であり、圓朝物なのではないかと思える。速記や印刷、新聞連載といった新しいメディアに乗って、三遊亭圓朝が生み出した物語は当時の憂さを晴らすというよりも陰気に寄り添う一面があったのではないだろうか。もしかしたら、近く交流していた井上馨渋沢栄一といった政治や経済に近い人物達から出た私人としての言葉から感じ取ったものが反映されているのかもしれない

「落語(らくご)」と呼ばれるようになったのは1887(明治20)年ごろからとされます。

落語って何?いつから始まったの?世界に誇る伝統芸能を3分で解説 | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る!より引用)

intojapanwaraku.com

落語の歴史:明治の新しい笑い|大衆芸能編・寄席|文化デジタルライブラリー

圓朝物は(自分がやりたい)落語じゃない」という言葉に反応したのは、以前調べていた静岡滞在時代の徳川慶喜公の話にある。明治29年11月、三遊亭圓朝が静岡・西草深の慶喜邸を訪れた時、慶喜公が久しぶりに「講談」を聞きたいので予定を確認するようにと家の人(家扶・家務に従事する人)に話したという。

慶喜公は明治10年代の一時期講談に「ハマって」いた。カメラや自転車、珈琲を始め、多趣味で有名な慶喜公だが、ハマるとしばらく熱中する集中型で、年齢や体力で趣味を変えた人だ。10年以上前にハマっていた「講談」を久しぶりに聴きたい。この「講談」という言葉を否定的な意味でなく興味を持っていたのを思い出した。寄席での演芸を大らかに楽しんで受け取っていた感覚的な表現に思えたのだ。

寄席の興行は15日が基本だった。六代目 三遊亭圓生によれば、大正か昭和の始め頃10日興行になった。15日興行で静岡などに出向くとなれば、7日静岡で8日浜松といった調子だったとも。明治29年11月20日から静岡の愛共亭で行われた興行は7日間だった。

地方は割って7日ないし8日、東京の寄席では15日。このサイクルで、自分がトリを取る寄席に来てもらう落語。講談が続き物で客を次に引き寄せる語りをするのと同じように、圓朝の落語は一夜の最後に「続きは明日」がサゲ(オチ)代わりになる続き物になった。新聞連載が先か、圓朝スタイルが先かはわからないけれど、圓朝の落語が「講談」と呼ばれても不思議が無い。

圓朝物は(自分がやりたい)落語じゃない」と感じるのは、今目の前にいるお客さんを楽しませたい演者と相反するスタイルだからなのかもしれない。

 

圓朝物」が広げてくれる落語

以前音源で聞いた桂歌丸師匠のインタビューを思い出す記事を見つけた。

ロングインタビュー 桂 歌丸 - 芸団協CPRA「SANZUI」バックナンバー

音源ではきっかけを聞いた覚えがなかったけれど、歌丸師匠は「圓朝物」を求められて取り組んだことが機会となったそうだ。若手の頃は滑稽話が得意だったとも聞いたことがある。

こう言っては失礼だが、歌丸師匠の高座音源を聴いてみると、現代だと結構アウトなマクラも多い。私が子供のころにラジオやカセットで耳にした落語もその上を行くアウトがいっぱい入っていた。大きくなってその意味がわかっても、現代のような過剰反応は誰もしていなかった。だからこそ微妙な肌感覚で口にしない方がよい言葉を覚えた。現代で問題になっていることを考えると、肌感覚とか空気を読むのも善し悪しではあるけれど、言葉が持つニュアンスは音にもあり意味にもあり繋がりにもある。単語の意味を統一させようとし過ぎて地域の言葉が薄れ、わかりやすい言葉に差し替わってきた。

読書や年上の人が行くようなライブもそうだったように、よくわからない言葉や熱気から「大人の世界」が透けて見え、意味を自分で感じ取って知る時代は遠くなった。検索タイパで意味を知る時代に「落語」という単語から「人情噺」や「怪談噺」は想像がつかない。「落とし噺」の「落」を入れたのだろうか。「落語」という言葉が出来た当時の事も知りたかったのでそんなことを考えた。

落語のオチのパターンも多種あると聞くけれど、流れるような調子から体操競技の着地のような凛と決まるようなサゲ(オチ)はなるほどと思うことはあっても、どちらかといえば最後に爆笑するものは多くない。笑った笑ったと後に残る楽しさは、聴く人に添って調子が重なった所だろう。

自分がやりたい落語が圓朝物であったとしても、寄席では簡単にできない。トリだからと誰もが圓朝物を演るのはむしろ野暮だ。つまらない。

それでもトリネタの中にも圓朝物は潜んでいるし、暑い夏に三遊亭圓朝の落語は定番だ。圓朝の怖い噺をする人だと思っていた師匠方が、滑稽話も一段と面白く聴かせてくれると知った時はより一層落語が面白くなりもっと聴きたくなった。

圓朝物が歌舞伎になっていると知れば見て見たくなった。その後圓朝の人物像について調べ始めると、歌舞伎の世界や出版の世界、政治の世界との広い繋がりに驚かされるばかり。「圓朝物」は自分が聴きたい落語じゃないのに、落語への興味を広げてくれる存在だ。

季節や歳を重ねるうちに推しが圓朝物をやったりするかもしれない。
その時楽しめたら「圓朝物」は「落語」でいいんだと思う。

桂歌丸12「朝日名人会」ライヴシリーズ95「紺屋高尾」/トーク:歌丸ばなし1

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