直子の部屋

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圓朝が静岡興行した寄席さがし その4 鉄道で地図沼にハマる

今回も自由研究の続きです。

entsunagi705.hatenablog.com

前回の記事で静岡に滞在した圓朝が見たかもしれない景色を書きました。
関係する場所をわかりやすくするため、ガイドマップを作りました。

 

ガイドマップは、Googleの「マイマップ」を使いました。
自分の地図を作るにはコツが必要で、苦戦しながら作業しました。
普段は何気なく検索して、好きな場所も気軽にマークできる地図や路線検索アプリの凄さを再認識しますね。

なんとか静岡駅、宿、寄席、徳川慶喜公の屋敷などの位置関係がわかる静岡の市街地図が出来ました。手間は掛かれど圓朝が見ただろう景色を想像しながらの楽しい作業。

その結果。

東海道線の路線図引けないかな・・・」

・・・

私は地図が好物だったことをすっかり忘れていました。

次は市内の他の寄席や劇場のことを書こうと思っていたのに、旅路に興味が向かってしまいました。マイマップで路線図を書くのはかなり手間で、市街地よりも数倍時間がかかりました。静岡興行とは直接の関わりはないけれど、載せたい場所も追加しました。駅の開業時期や関連人物の年譜など、ちゃんと書こうとする程に資料を読み込む必要が出てきました。興行と同じ年の1月に圓朝が出向いたという井上馨の興津別邸の敷地について調べ始めた辺りで自分の性分に呆れました。静岡興行と関係ないし。呆れた好奇心と探究心のおかげで地図が変に充実したので、ぜひあちこち見てください。

前回の記事を読んでから楽しむのがおすすめです。

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明治29年当時の東海道線 新橋~静岡

前回も書いた通り、静岡に駅(停車場・ステーション)が出来たのは明治22年。この年に現在の東海道線にあたる新橋~神戸間が開通しました。開通当時、静岡~新橋は7時間半、下等運賃で1円42銭だったそうです。

小田原から湯河原や熱海などは現在トンネルを抜けて進む部分は開通しておらず、国府津から沼津までは現在の御殿場線を通ったといいます。駅の数も現在とは違い、今では人の往来が多い駅も多くはまだなく、軍事関連や都市の利便性に関連して次第に鉄道網が拡大し、駅の数も増えていきました。途中災害もあり、後年復興しなかった駅もあります。

当時は始発も東京ではなく新橋、横浜駅は現在の桜木町駅清水駅も江尻駅という名で現在地よりも少し南側にあったようです。東海道の宿場町と駅の設置場所には土地ごとで状況が異なり、反対運動で駅が設置されなかった宿場や、駅と宿場と人の流れを繋ぎなおすために私鉄が作られ、周辺地域が栄えた例もありました。後に出てくる箱根は、成功例として代表的な場所でしょう。

徳川慶喜公は静岡に鉄道が開通した年からさっそく利用され、遠方の親類と親交を深められています。静岡興行があった明治29年頃には興津に別邸を構えていた井上馨圓朝とも親交が深い頃で、興津で園遊会を催した折に別邸近くに臨時駅を設置したという逸話もあります。

現在の地図を基に当時の東海道線を辿って線を引いていくと、途中で丸ごとずれたり保存したはずの位置からずれていたり。あまりの手間に「これはやる意味があるのか?」と自問自答しましたが、地道に線を引いた結果、当時の走行距離が判明。新橋~静岡はおよそ192Km。東京~静岡間は現在180km程なので、新橋発でも少し長い距離だったことがわかりました。

箱根立寄りの仮説から

前回『圓朝遺聞』載っていた「茶店の婆に惠む」箱根の逸話に触れました。
箱根は圓朝の噺にも度々登場しているので取材に出かけたことはあったでしょうが、この逸話は興行の後のこととされています。帰りに立寄っていたとしたら?と気になっていたので、箱根へ立ち寄れるのかも調べてみました。

箱根や小田原は宿場と温泉の湯治客が鉄道開通で離れることに危機感をもって明治21年(1988)に鉄道駅のある国府津から小田原経由で現在の箱根湯本駅に鉄道を作っていました。なんと馬が引く馬車鉄道です。国府津~箱根(箱根湯本)は約1時間で国府津~小田原六銭、小田原~箱根八銭(現在の3~400円ほど)と手頃で、観光資源に富んだ人気の観光地。今と変わらない出かけやすい観光地の印象です。

明治29年圓朝が静岡に向かう直前には馬車が電鉄になっています。その後は箱根湯本から強羅までの路線が作られ、現在の箱根登山鉄道となりました。

少し以前の明治25年には、箱根湯本の地元有志によって須雲川に水力発電所が作られ、旅館街に電気の供給が始まっています。全国で2番目にできた水力発電所によって箱根に電燈の灯りがもたらされました。

これは静岡興行より前になりますが、明治23年やまと新聞の付録として「明治の地獄」という圓朝の口演が速記になっています。箱根の宗蓮寺で見た地獄極楽の絵を見て思いついたと書かれています。鉄道が通り、ガス灯から電灯へと景色が変わってきた明治の様子が伝わります。

明治の地獄    三遊亭圓朝(速記)青空文庫 (参照 2023-08-18)

当時の圓朝

圓朝は300坪あったという新宿の自宅を手放した後、複数回引越をしていました。「新版 三遊亭圓朝」に当時の詳細をみることができ、静岡興行があった明治29年11月のひと月前の10月から芝区西久保桜川町十三番地に自宅を移しています。

この場所は、現在なんと虎ノ門ヒルズの一角!その後も亡くなるまでに住まいを移していますが、現在の様子をイメージできる場所だけに、見つけた時には思わず笑ってしまいました。私もとても驚きましたが、圓朝師匠もこれは想像できなかったでしょう。

この場所は新橋駅からも歩いて15分ほどの場所で、まさかそのために引越したわけではないと思いますが、この頃井上馨氏との親交で興津や山口にも出かけていたと考えると駅チカの住まいは便利だったはずです。

圓朝が交流した人達の住まい

ガイドマップは「位置」がわかるように作り始めましたが、東海道線で距離がわかったのと同じ様に、Googleのマイマップには敷地面積がわかる機能があります。

そこで、静岡の西草深にあった徳川慶喜公のお屋敷、圓朝が宿泊した静岡駅前の大東館と興津の井上馨別邸の敷地跡も載せてみました。もちろん資料を基に推定で書いたものですが、大きさの比較としては面白いものになりました。静岡でも有名だった大東館よりも慶喜公のお屋敷がずいぶん大きいことがわかります。慶喜公がそれ以前に住まわれていた紺屋町のお屋敷も、現在料亭となっている浮月楼の敷地よりも大きかったようなので、いずれ加えられたらと思っています。
→ 追加しました 旧徳川邸(旧徳川慶喜公屋敷)

徳川慶喜公屋敷と駿府城付近

記録に残されている圓朝ゆかりの人達は、江戸から明治の時代を動かした人が多くあります。その中でも主要な人たちは徳川慶喜公とも縁があり、慶喜公が静岡に移ったことも関係してか静岡の歴史とのゆかりも見つかります。実際は静岡だけではなく日本や世界に影響力のある人達なのですが、政治や権力に関わる人達が圓朝の贔屓として繋がっていることがとても興味深いところです。

歴史のお勉強と思うと年代も出来事もまるで頭に入りませんが、興味を持った出来事から辿るとキリがない。地図を眺めては圓朝とゆかりの人達と静岡の繋がりを見つけてしまい、調べる範囲を広げてしまいます。慶喜公を始めとして高橋泥舟山岡鉄舟井上馨渋沢栄一といった錚々たる人達が明治を作る過程で静岡で過ごしています。
政治や仕事だけでは興味を持ちづらい人物達が「圓朝と交流があった」「静岡で過ごしていた」と知ると途端にもう少し知りたい人になって面白い。
また地図にゆかりの地を載せてみると鉄道の発展との関係もわかり、江戸が開いた時代に街道整備が行われたことも改めて納得します。

知るほど不思議な気分になる夏の自由研究。生の高座を聴く楽しみと違い、家でできてしまうのが曲者です。

参照:

新版 三遊亭円朝 (青蛙選書)

小川龍彦 編著『写真集明治大正昭和静岡 : ふるさとの想い出13』,国書刊行会,1978.12. 国立国会図書館デジタルコレクション  (参照 2023-08-18)

東海道本線-Wikipedia(参照 2023-08-18) 

その後の慶喜 (講談社選書メチエ)

馬車鉄道から始まった「箱根登山鉄道」の歴史 膝栗毛 | HIZAKURIGE

箱根登山鉄道-Wikipedia (参照 2023-08-18)

ゆかりの地を訪ねて vol.27 湯本湯端発電所 日本電気協会 (参照 2023-08-18)

明治の地獄    三遊亭圓朝(速記)青空文庫 (参照 2023-08-18)

三遊亭円朝 著 ほか『円朝全集』卷の十三,春陽堂,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1882543 (参照 2023-08-18)

横浜駅があるのは何処か? 【ハマnote】(参照 2023-08-18)

土屋和男 [著]『近代和風住宅を通した景勝地の形成に関する史的研究』. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3168271 (参照 2023-08-18)

大正10年 芝地区地図(全体図)港区ホームページ(参照 2023-08-18)