次第に「寄席さがし」から離れてきた自由研究の続きです。
ガイドマップ作りにハマった前回から、ひと月近く開きました。
その間は明治・大正・昭和三昧。
朝ドラ 「らんまん」を見て、今年で100年の関東大震災の映像を見て
昨日は古今亭志ん生師匠の高座も見ました。
カラーで蘇(よみがえ)る古今亭志ん生(NHK)
関心がある時代がドラマになったり、技術が進んでモノクロ映像がカラー化されたりすると、別世界だった当時の生活が途端に身近に見えます。特に最近明治・大正時代の新聞を閲覧していたので、先人の暮らしぶりがつぶさに感じ取れます。
災害の映像はカラー映像になっただけでこんなにリアルに感じられるのかと驚きました。今年の夏に多く見た関東大震災のカラー化映像には、寄席や劇場が消火されている様子もありました。今は当たり前に思える予測技術や防災対策も、近代に災害があったからこそ進んだ研究のおかげなのだと知りました。
[NHKスペシャル] 100年前の被災者の表情まで鮮明に 関東大震災の貴重映像を高精細カラー化 | 映像記録 関東大震災 帝都壊滅の三日間 | NHK - YouTube
圓朝師匠や静岡の資料を調べると、火災で焼失した資料を見てみたかった、ということが度々あります。遺して閲覧できるよう整備してくださった先人には感謝ばかりです。
行き詰って読書してみた
前置きが長くなりましたが、その後の自由研究は少し中途半端なまま行き詰りました。
寄席・愛共亭の場所も見つかり、興行の顔付けもわかり、圓朝師匠の足取りのイメージも出来て、一応自由研究の目標は達成したものの、興行の評判を見つけることができなかったのです。
愛共亭での静岡興行のことはきっと地元紙で報じられたに違いない!と息巻いて新聞記録を調べましたが、当時静岡市内で発行されていた「静岡民友新聞」は保存されている新聞資料の中で興行が行われた明治29年は欠損していて、記事を見つけることが出来ませんでした。
そんな頃、気分転換も兼ねて自由研究を離れて圓朝小説を読んでみました。
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奥山景布子さんの「圓朝」は小説ですが、よく検証して書かれていることが感じられて、自由研究でその生涯の断片を知り始めていたので、圓朝自身の物語を旅出来て読書を楽しむ気持ちも再燃してきました。興行の事を中心に調べていたせいか、噺を作る人としての視点で書かれた描写にワクワクしました。
落語が好きになってから特に「調べる」ことから「人を知りたい」に興味が広がる気がします。今は資料として使っていた徳川慶喜公の書籍も読んでいます。将軍でない静岡時代以降の慶喜公は人としても興味深く感じます。
偶然みつけた圓朝の元嫁・お里の足取り
気分転換も出来て、国立国会図書館のデジタルコレクションで改めてキーワード検索をしてみると、圓朝の子を産んだお里が静岡にいたらしい話を見つけました。
お里の後の旦那が幇間(太鼓持ち)で、夫婦で静岡に居たというのです。
その旦那はやきもち焼きなのか、圓朝が静岡にやって来ると、女房のお里が心配で気が気でなかったらしい。
圓朝が興行でやってきた静岡に、息子・朝太郎を生んだ元嫁が後の旦那と静岡にいて
ニアミスしていたなんて!
圓朝の耳には入っていたのでしょうか。そもそもなぜ静岡に元嫁がいたのか。
元嫁・お里の旦那は元武家の芸人幇間
後の旦那とは松廼家露八という人物。
なかなかの変わった御仁です。
露八は元武家で剣術や槍術にも長けていたのに、幇間になったという人物。
親に勘当され地方で芸人として過ごしていたのが、幕末江戸に立ち返って、彰義隊として上野の戦争に参加して戦うもあえなく敗北。なんとか逃げ延びて船に乗り北海道へ向かうも、千葉沖で嵐に逢って流され静岡にたどり着く。
二丁町で幇間をし、貸席を開いていたこともあるらしい。
その後東京に戻り吉原で過ごし、更に静岡に移り住んで静岡事件という政治事件に関わる。同時に幇間もしており、情報収集のためという説もある。
後年は東京に戻っているものの、静岡に来たのが二度なのか三度なのか、十数年いたのか二十年以上いたのか、時期はいつごろか、その内容は調べる程諸説あり。
それぞれ時代や内容が繋がらない。
史実にも登場するしその生涯の面白さに小説にも登場する名物芸人。
露八の記録はどこまでが本当かわからないのが食えなくて興味深い。
ただ実在したのは間違いない。
少し紹介しようとしてもこれだけ出てきます。
話題性がある芸人夫婦
実はここで元嫁と呼んでいるお里は、子は産んだものの、諸事情あって圓朝に妻として迎えられませんでした。圓朝は当時30歳前後。同朋の娘として育ち芸事は身について堪能。ただ、大酒を飲む奔放気味な女性だったらしく、別れた後は芸者を経て吉原の梶田楼の娼妓だったといいます。静岡では露八の女房で二丁町の芸者。露八と出会ったのは吉原、静岡の二丁町、諸説残されています。
圓朝が静岡に来ると聞くと自分は仕事で上がる座敷を休みお里を見張り、その騒ぎが笑い話になる程だったらしい。
ただ残された話はどれも名物幇間の噂話といった内容で、圓朝の元嫁が女房なんだと面白がるものばかり。時代もわからりません。
夫婦ともに水商売。旦那の露八は名物幇間で土肥庄次郎、荻江露八、松廼家露八と名乗り名がいくつもあり、その女房の名前は「お里(おさと)」「おとく」「愛人」「老松」「延菊」と記述がバラバラ。名前はなんだったか覚えていないというものまである。源氏名を変えていたのか伝聞違いかは不明だけれど、露八の女房は圓朝の元嫁という話題で知られていたようです。
露八が本当にやきもち焼きだったのか、話題作りだったのかはわかりません。旦那の露八は人気の幇間太鼓持ち、女房が圓朝と縁がある芸者の芸人夫婦。
贔屓が喜んで噂をし、話題になって残ったのでしょう。
元嫁・お里のニアミスは愛共亭の興行だったのか?
いくつか見つけた記述の中の一つに
”圓朝が静岡に来る毎に露八は人騒がせを為さりき”
と書かれているものがありました。「東海三州の人物」伊東圭一郎 著(静岡民友新聞社)
「来る毎に」ということは、圓朝が静岡に何度も来て露八がやきもきしていたニュアンスです。
慶喜家の家扶日記を見ても、圓朝は明治26年から29年の間に静岡へ複数回来ています。けれども露八が静岡に滞在した期間は、明治元年(1868)から30年(1897)頃まで30年の幅があります。諸説あって時期を確定できませんが、短くても12~3年、長ければ通算20年以上も静岡で暮らしていました。その幅での可能性を考えると、圓朝が静岡に複数回来て、寄席に出たのも一度の興行きりではないのかもしれません。
お里は愛共亭の興行が行われた明治29年(1897)に亡くなった説もありました。
露八が圓朝来静を聞いて、ニアミスのニアミスを防ごうと躍起になったのはいつのことなのか、この調査も謎に終わりました。
露八と圓朝
露八は圓朝より5歳年上でした。露八は荻江節の三世荻江露友の門人であり荻江露八を名乗りました。一方圓朝は「月謡荻江一節」を連載したこともあったように、四世露友と縁があったようです。露八は荻江の跡目争いに嫌気がさして松廼家に名を変えたという話もあります。女房のことにも、芸事のことでも、少し年下で時代の名声を得た圓朝を意識しないではいられなかったのではないでしょうか。
静岡で唯一となった時期もあったという名物幇間の露八。夫婦で目立って話題になっていたのかもしれませんが、やきもちあるいはライバル心は案外純粋なものかもしれません。
露八がヒントをくれた江戸東京と静岡
静岡市内の劇場や寄席の記録は、ようやく都市としての記録を取り始めた時期と重なって、専門特化した資料を見つけることができませんでした。特に寄席については繁華街の移り変わりの一部として残されているか、新聞で時々出る興行予定の記事程度。
対して、今回は詳細に書きませんでしたが、露八の足取りを追うと、幕末から明治の境目に起こった出来事や江戸から静岡、静岡から東京への人の往来が少し見えてきました。
大政奉還後、江戸は東京となり新政府主導の都市作りが始まります。
慶喜公が静岡に滞在したことで旧幕臣がどっと静岡へ移り住み、東京には薩長を中心に地方から上京する人が増えました。東京の寄席には江戸弁がわからない田舎者が増えたという話は、田舎者が増えただけでなく、江戸の中心にいた幕臣も東京から減っていたということだったのです。
地元の人が暮らすのに困るほど移ってきた江戸の人達が集まる静岡には、遊ぶ場所が必要になりました。芸人も商売になった。御一新や西洋化、戦争で好景気の波も起き、鉄道開通で交通の便も激変。事業にも政治にも興す人たちがたくさん生まれ、静岡に留まる理由が薄くなり東京に戻る人もいれば、静岡に戻ったり留まったりした人が身分にかかわらずいたのです。
特に露八は、圓朝や慶喜公のような細やかな記録はないものの、目立つ事件に関わったり、変わった経歴を生かしたり、見れば噂になる人気芸人となったことから残されていました。間接的に圓朝と圓朝に縁のある偉人達が見えたりニアミスしたり。噺家の圓朝だけでなく、幇間の露八も贔屓に独自の人脈を持っていて、落語に出てこないタイプの芸人だったことが垣間見えました。実際武人と幇間の二面性には様々な説があり、どこまでが本音なのか見せない人物像に面白さがあります。もしかしたらどこか圓朝に通じるところがあってお里も夫婦になったのかもしれません。
元嫁・お里は東京に眠っていた
「新版・三遊亭圓朝」ではその後は明らかでないとされていた元嫁・お里。露八について調べた結果、お里は、彰義隊ゆかりの寺である上野の円通寺に眠っているらしいことがわかりました。
記録があいまいで「お里」だったのか、「おとく」だったのかこの目で確かめてみたかったので、夏のとても暑い日に円通寺へも行ってもみました。
訪ねてみると露八(土肥庄次郎)の石碑は見つけましたが、彰義隊の一員としてのもので、石碑に墓石のような記録は見て取れず、夫婦で眠っているのかはわかりませんでした。暑さに負けました。
残念ながら土肥庄次郎(露八)の石碑は倒れたことがあり割れてしまったのだそうです
彰義隊のことも上野の戦争のことも知識がないまま伺いましたが、上野の戦争痕を残す黒門が移設され、彰義隊を弔ったという場所には大木が立ち並び、一瞬お寺の境内にいることを忘れました。
大木が彰義隊の石碑群と黒門に日陰を作ってくれていました
新門辰五郎も実は慶喜公に縁深く静岡に劇場を作った人物(玉川座、のちの小川座、若竹座)
露八も小川座時代に舞台にあがった記録がある
円通寺境内の片隅に残された可愛い顔の狛犬さんが江戸時代を超えてきた時代を感じます。
静岡で噂になった夫婦は、後年いくつもの小説になる程目立つ存在だった様なのに、今までまるで知りませんでした。
石碑や史跡で街の歴史を知ろうといわれても、あまり興味も持てず時代も名前も頭に入らないものです。露八とお里の夫婦は生まれ育った近くの駒形に住んでいたなんて設定の小説もあり、圓朝とのエピソードまであって今が私の旬です。
偉い人より興味がある人で土地を探る面白さが加わると、静岡調査も加速しそうです。
参照:
静岡県の昭和史 : 近代百年の記録 上巻 幕臣のその後 松廼家露八 東恭輔
静岡県の昭和史 : 近代百年の記録 上巻 露八の民権 海野福寿