直子の部屋

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圓朝が静岡興行した寄席さがし その3 圓朝が見た景色

先日からの自由研究続きです

entsunagi705.hatenablog.com

いきなり余談ですが、今日は国立演芸場で収録された「笑点」が放送されました。
知人に聞いて応募した観覧募集に当選!後にかなり狭き門だったらしいと聞いて国立劇場と落語贔屓としては幸運に恵まれたとしみじみ。昨日の放送では一瞬映っていたらしいと見つけて大はしゃぎでした。

8月の国立演芸場は背景が屏風や襖ではなく簾(すだれ)をはめこんだ夏障子。軒には釣しのぶに風鈴が下がっているという涼しげな夏の風情が素敵なので、来週の笑点でいつもと違う雰囲気をチェックしていただけたらと思います。

 

今回は「圓朝が見た景色」と題してみました。
前回あまり触れなかった徳川慶喜公の記録や自由研究で目にした資料で知った市内の様子から、静岡に滞在した間に圓朝が見たかもしれない景色を書いてみたいと思います。
ただし、推測も兼ねておりますので、その点ご容赦ください。

また、愛共亭を見つけた『豪家記入静岡市精細地圖』を元にガイドマップも作ってみました。町割りが今と変わっているので位置関係も推定ですが、少しわかりやすくなると思います。

ガイドマップは順次追記・更新しています

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圓朝は呉服町4丁目の愛共亭で興行を行いました。
明治29年11月20日が初日で7日間の予定だったといいます。

前回紹介した11月18日付の中央新聞によると

三遊亭圓朝は今度静岡地方よりの招を受辞するに途なく今十八日門人の橘之助 武生 圓花、竹本叶、同大三 他二三人を引連れ出発

とあります。

鉄道で静岡へ移動

明治22年には静岡にも鉄道が通りました。1日運行本数2本。新橋まで7時間半、下等運賃1円42銭。同年に新橋駅から神戸までが開通し、28年に「東海道線」という名前になりました。29年には急行列車も登場。とはいえ運行本数も今ほど多くないでしょうし、静岡までは6~7時間はかかったと思われます。29年1月には興津の井上馨邸に、4月には山口へも旅行している圓朝ですので、58歳という年齢での活発な旅を考えると鉄道を使ったのではないかと考えられます。新聞記事の通り18日に出発して、途中どこかへ立ち寄った可能性もあります。

東京駅が出来たのは大正時代、また新橋から国府津までは現在の御殿場線を通っていたようです。圓朝一座が鉄道で静岡へ向かったとすれば、現在の東海道本線よりもダイナミックな富士山を望み、駿河湾を眺めて向かう行程だったことでしょう。

静岡駅前

静岡駅は現在と同じ場所でしたが、平屋で駅前北口に棕櫚などが植えられていたようです。現在の国道一号線を挟んだ向こう側は当時の町割りでは紺屋町(現在の御幸町付近)で鉄道開通に伴って呉服町へ抜ける通りも開通したのだそうです。周辺には複数旅館が建てられました。圓朝一座も駅前の大東館に宿泊しています。愛共亭がある呉服町までは数分で寄席がある呉服町から先の札の辻、七間町界隈は繁華街の中心地です。7日間の滞在中にまったく出かけないということもないでしょう。圓朝師匠や橘之助師匠が静岡を闊歩していたと思うと当時の繁華街の様子も気になってきます。

徳川慶喜邸訪問

徳川慶喜家扶日記」の記録によると、明治29年11月20日圓朝徳川慶喜公の元へ伺って、27日まで興行のため滞在していることを伝えています。原典を確認できていませんが、『その後の慶喜』によれば慶喜公から講談(高座)を聞きたいので滞在期間や興行時間を確認しておくようにと側近に御沙汰があったとか。

その後27日にも圓朝慶喜公の元へ伺っていますが、「講演のため午後二時出頭」し「夕食と廿五円賜る」と慶喜公が記されています。愛共亭の興行は午後4時からで圓朝はトリ。愛共亭があった呉服町から西草深町の徳川邸へは歩いて20分弱、大東館からでも30分程度。人力車を使えばもっと早く移動できます。慶喜公に講演申し上げた後、駿府城の外堀辺りを移動して寄席へ出て、その後繁華街で夕食をご一緒したのかもしれません。慶喜公も圓朝の2つ上の同年代、新しいものもお好きで外出や周囲との交流も盛んだったと聞きます。静岡の繁華街はコンパクトにまとまっていますから、慶喜公おすすめの店で食事をし、興行での様子を圓朝が楽しく話したのかもしれません。

ただ、『その後の慶喜』には講演後” 食事が供され ” とあります。寄席がハネた後は徳川邸に再び伺い食事ごご一緒されたようです。還暦の感覚は現代とも違ったでしょうし、疫病に敏感になる時代でもあり、慶喜公は口にするものには慎重な方だったようです。その反対に、数年前からコーヒーを楽しむようになられていた記録もあります。講演後に慶喜公とコーヒーを楽しんで圓朝師匠が寄席に向かったのかもしれない思うと、これはちょっと楽しくなります。

明治22年駿府城は廃城が決まり、城址と城壕は静岡市が国から一括で払下げたものの、その後は政治的な理由などで複雑な経緯をたどります。明治29年5月には軍国主義化の一端で駿府城池一切は陸軍省へ献上が決まり、一部城池の埋め立てが始まったそうです。圓朝が訪れた11月に普請(工事)が行われていた可能性もあります。

静岡興行の帰路

圓朝遺聞』に静岡興行に関する逸話があります。「茶店の婆に惠む」というタイトルで、圓朝が大施餓鬼をしたとあります。静岡興行の後、五代目朝寝坊むらくを連れて箱根に回った圓朝が旦那を亡くしてしょんぼりしていた茶屋のお婆さんを見て気の毒に思い、紙包みを置いていく。中には十圓紙幣が三枚の大金。気づいてこれは間違いではないかと宿まで追いかけてきたお婆さんに圓朝は間違いではないから取っておくようにと言います。お婆さんは涙を流して喜んだそうです。

当時寄席の木戸銭の相場は、東京で三銭から高くても十銭ほどだったとか。
この時の静岡興行は” 木戸二十五銭、席料五十銭といふ高価であったにも拘らず非常な大入であった。”とあります。静岡でも東京から名の知れた芸人を呼ぶことはあったようなので書かれている通りの時期(明治26~7年)に静岡興行がなかったとはいえませんが、愛共亭のビラ下の広告に書かれた席亭の意気込みを読む限りは、この逸話は愛共亭での興行の帰路だと思われます。静岡興行に出ていた全亭武生は六代目朝寝坊むらく。この逸話に出てくるのは先代で武生だったことはない人なので、間違いないとは言い難いところですが。

『その後の慶喜』によれば、慶喜公はご自身への講演料として金二十五圓、加えて献上物への返礼として五圓、合わせて三十圓を圓朝に与えられたそうです。興行の盛況に加えて御褒美を受けたような良いことづくめ。大施餓鬼も納得してしまいます。

静岡興行前後の圓朝

明治24年6月に圓朝は寄席を退隠しました。寄席に上がらなくなった後も、歌舞伎で塩原多助や牡丹燈籠を始め圓朝作品は上演されていき、圓朝の名は廃れる様子はありません。

寄席を退隠した理由は健康面の発端ではありませんでした。その後の口演について調べると、寄席に再び上がったとされる明治30年までにもいくつか記録がありました。

明治25年9月には退院後乞われて一度は断っている大阪へ出向き、浪花座で「業平文治」を口演しています。

その後28年には浜町の日本橋倶楽部で圓朝を中心に催された円朝会(聴話会)の記録があります。上流家庭の人々が集う会で1回のみというものではなかったようですが、詳しくはわかりませんでした。ただ、静岡興行のような寄席で数日に渡るものではなかったようです。

静岡興行のすぐ後の12月13日から3日間、牛込和良店亭に圓遊、伯知、橘之助、圓太郎、圓生圓朝で上がったという時事新報の記事があるそうです。11月27日に静岡の興行を終えたばかり。寄席に再び上がったのは30年11月と云われていますが、特別興行だったでしょうか。牛込和良店亭は漱石も通った寄席。客席に漱石もいたかもしれません。

翌年明治30年11月には両国の立花家に弟子のスケということで圓朝は再び寄席に上がります。最後の高座は日本橋通りの木原店、孫弟子 遊之助のスケで上がり「牡丹燈籠」だったといいます。この2年は休みがち、また途中重い病気にも罹ったとか。

寄席が大入になると弟子に任せて休んでしまう逸話もあった圓朝。寄席の退隠後は依頼があっても断っていたという中、東京よりは少しのんびりした時間を過ごしただろう7日間の静岡興行は、旅も兼ねた気分転換になったのではないでしょうか。東京へ戻ってほどなく再び寄席に出るようになったことを思うと、静岡で生まれ育った身としては、きっとそうに違いないと思いたくなりました。

慶喜公東京に戻る

明治30年11月16日に慶喜公は静岡の西草深邸から東京千駄ヶ谷へ移っています。年齢や健康面の他に大政奉還後30年という月日で状況が変わったこともあるようです。圓朝が寄席に再び上がった時期と重なるのが不思議です。東京でも再びお会いする機会はあったのでしょうか。

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書くのもまとめるのも本当に苦手なので、喋った方がはるかに簡単。。
一度調べたものを確認しながら書いて倍以上時間がかかっているものの、楽しく調べた自由研究。推しの師匠をきっかけに落語にハマったのと同じように、圓朝師匠の興行を掘っていったら、静岡の近代の歴史も具体的な景色になってきました。
個人ブログで載せたい画像資料も思うようにはなりませんが、論文の縛りもありません。どうやっても独自にはなりますが、次は愛共亭の他にもあった、明治時代の静岡市内の寄席や劇場などについて少し書けたらと思っています。

 

参考文献:

慶喜邸を訪れた人々―「徳川慶喜家扶日記」より

その後の慶喜 (講談社選書メチエ)

小川龍彦 編著『写真集明治大正昭和静岡 : ふるさとの想い出13』,国書刊行会,1978.12. 国立国会図書館デジタルコレクション  (参照 2023-08-13)

安本博 編『静岡中心街誌』本編,静岡中心街誌編集委員会,1974. 国立国会図書館デジタルコレクション  (参照 2023-08-13)

三遊亭円朝 著 ほか『円朝全集』卷の十三 圓朝遺聞より ,春陽堂,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション (参照 2023-08-13)

倉田喜弘 編『明治の演芸』6 (明治28年~明治32年),国立劇場芸能調査室,1985.9. 国立国会図書館デジタルコレクション  (参照 2023-08-13)

池田 次郎吉 『豪家記入静岡市精細地圖』明治28 国立国会図書館