直子の部屋

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圓生が興行していた静岡の寄席「入道館」

久しぶりに静岡の寄席話を。

 

六代目三遊亭圓生師匠が残している本には
寄席や寄席の楽屋話の記憶を残そうという趣向のものがあり
生の高座へ足を運ぶのとは別に個人的に大変好み。

 

その中で先日から時々名前を出していた
『寄席切絵図』に静岡の寄席や興行をした場所がいくつか登場。

主な2つが静岡の「入道館」と浜松の「勝鬨亭」

 

勝鬨亭は古今亭志ん生師匠に縁があるらしく
大河ドラマ「いだてん」にも登場したらしい。

静岡の「入道館」には大正時代から戦中まで
何度も行ったことが書かれている。

 

入道館は七間町にあった寄席。

七間町通りから今の両替町通りを少し入った所という説と
通り沿いで呉服町側から行って両替町の通りを越えた辺りの説有り。
(七間町のアルティエ、またはスルガ銀行の向かい辺り)
地図や写真も残っているけれど、何しろ残っていないので推定。

 

東京の人形町末広より少し奥行きがあり
大きいが畳敷きで桟敷はない。
客は普段でも120~130は入り、物日や顔付けではもっと入ったとか。

今では人形町末広も現存しないのでわからないが、
新宿末広亭が1階椅子席と桟敷で193席、
2階が桟敷120席に一部椅子がつくということなので
1階を畳敷きにした位かもう少し大きかった感じを想像する。

 

関東大震災の少し前まで寄席興行は15日ずつだったので
静岡7日、浜松8日といった振り分けをして行ったそうだ。

その後東京の寄席が10日興行となっても
東京同様に10日間交代で静岡・浜松で興行が打てたという。

少しだけ旅先、という静岡は場所柄の思い出があるようで
入道館については興行の思い出も詳しく書かれている。

 

圓生師匠によれば、

 静岡へ行きますと、これァ七軒町というところに、入道舘というものがありました。
 これも、もとはなんとか別の名前だったんでしょうけれども、神田美土代町の入道舘と同じように、浪花節の桃中軒雲右衛門のものになってから、入道舘となった。あたくしどもが知ってからは、経営者は、もう雲右衛門ではなく、伏見亀太郎という人がやっておりました。でも、名前だけは、ずっとのちまで入道舘のままでいたわけで。

そう、入道館の入道とは浪曲のスター、桃中軒雲右衛門。
後年剃髪して雲右衛門入道を名乗るようになり
入道になってから東京・神田美土代町に入道館を持った。

 

神田と同じように静岡にも寄席を持ち、
後に別の経営者の持ち物になったが名前は残る。

浪曲の格を上げ劇場で興行できる芸にした雲右衛門。
そのブランド力にあやかりたいのは当然のことだろう。

静岡育ちなので伏見という姓を聞くとふしみやの親戚筋かと勘ぐるが
ふしみやは京都の伏見で名前ではなかった。

 

実は桃中軒雲右衛門については、以前の自由研究でも見かけていて
明治時代静岡にあった別の寄席との縁が書かれていた。
entsunagi705.hatenablog.com

その寄席は雲右衛門が出世する前に廃館。
別物といえ静岡に寄席を買った理由が気になるが不明。
だが、入道館の前の名前は資料が残っている。

 

桃中軒雲右衛門入道が買った寄席の名前は「開情亭」

 

静岡市内にあった寄席としてはかなり古く
明治14年頃には営業している記録がある。
明治前期の中心街商家一覧としてまとめられたものには
「開情亭 官許 上等席、諸芸宝の入船、定席」とある。

 

「開情亭」が「入道館」に変わった境目を調べると
大正2年9月に開情亭近隣で火災があり木戸門が焼け
次の年の3月には入道館に名が変わる。

雲右衛門入道のレコードがついに発売され
歌舞伎座の舞台に立ち、
関西の興行で大金を得たと取り沙汰された全盛期の後の事。

もし買ったのが大正2年の秋から3年の春の間なら
本人が持っていたのは長くても僅か2~3年。
金遣いについても豪快で有名な雲右衛門らしいというのかどうか。

 

圓生師匠によれば、明治・大正は
講談は釈場、義太夫席、浪曲浪花節席と専門の席があり、
落語をかける席は音曲、手品、曲芸などの色物をまぜて興行し
「色物席」と呼ばれたとか。

 

圓生師匠が来た大正・昭和初期頃は娯楽の中心はカツドウ、映画で
静岡にあった色物席は入道館だけだったようだ。

その後入道館は戦災で焼けてしまい
静岡に色物席、寄席はなくなってしまった。

それでもこの寄席は明治大正から名前を変えて
昭和初期まで続いた寄席ということになる。

大正から戦中までの入道館と静岡の思い出は圓生師匠が残しているし
以後の時代に落語会を催す席亭は戦後も今もいる。

 

若手時代の圓生の静岡旅興行の話、
桃中軒雲右衛門の静岡話、
その他明治大正の寄席にまつわる話が続きます(多分

 

主な参考文献

地図:

静岡新聞社 編『なつかしの静岡』,静岡新聞社,1982.4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9570659 (参照 2024-02-11)

東京交通社 編『大日本職業別明細図』,東京交通社,昭12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/8311839 (参照 2024-02-11)

静岡市復興地圖(1940) , 国際日本文化研究センター,所蔵地図データベース (参照 2024-02-11)

写真:

東京交通社 編『大日本職業別明細図』,東京交通社,昭12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/8311839/1/841(参照 2024-02-12)

その他:

静岡市企画部文書課 編『藤波甚助日誌抄録』,静岡市,1963. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/2996140/1/51 及び https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/2996140/1/53 (参照 2024-02-12)

安本博 編『静岡中心街誌』本編,静岡中心街誌編集委員会,1974. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9536561 (参照 2024-02-12)

 『蓄音器世界 = The phonograph world』4(3)より「浪界の大彗星桃中軒雲右衛門 天民生」,蓄音器世界社,1917-03. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1497995 (参照 2024-02-12)

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