直子の部屋

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静岡・入道館 その3 昭和初期の静岡寄席興行

かつて静岡市内にあった「入道館」での寄席興行のエピソードを六代目三遊亭圓生『寄席切絵図』の中からご紹介。今回は関東大震災を経て昭和に入った頃の静岡興行の話。
前回の大正10年の話もよろしければお読みください。

entsunagi705.hatenablog.com

昭和初期当時の不況

寄席の話に入る前に、時代背景について。

大正10年から昭和の始めとは、歴史で見ると昭和恐慌の只中。
大正7年第一次世界大戦終結すると、大戦景気が過ぎ戦時バブル崩壊1920年代(大正9年昭和4年)は国内が慢性的な不況に陥っていたそうで。

この不況は大正の戦後恐慌、銀行恐慌、震災恐慌、昭和恐慌とも呼ばれる昭和金融恐慌、昭和農業恐慌と続く。昭和4年の緊縮政策後に景気は一時回復するも世界恐慌の影響を受けて更に危機的状況に向かう。後の内閣がデフレ政策からインフレに政策転換をし昭和8年には景況改善に成功するものの、長く続いた不況と貧富の格差を背景に過激な思想から五・一五事件二・二六事件といったクーデター未遂や首相暗殺事件が起こる。政策のための軍備拡張や激化する事件への対策と満州事変や支那事変を経て発言力を強くしていく軍部、軍政へ移行と日本は大戦に向かっていく。

・・・とまあ付け焼刃で当時について勉強し直した。

落語からの興味だから調べてみたけれど明日には忘れそうな複雑さ。
世の中を変えたいとクーデターを起こしたり、政策に軍が権力行使していく物騒な時代は歴史の勉強で聞くだけにしたいところ。不況、恐慌、震災、クーデター、戦争。経済状況が悪くなるとこういう流れが起こることは忘れてはいけない。

硬派の話の後は、同じ時代を寄席のライバル、活動写真・映画業界で見てみる。

国内の映画館は明治36年頃からいっせいに出来はじめる。大正元年、既存の映画会社が数社集まり日活発足。大正3年にはチャップリンのサイレントシネマが出始め一世を風靡する。国産映画も歌舞伎のような演劇的な作品から撮影にカット割り技術を取り入れるようになり「活動写真」から「映画」と呼び名が変わっていく。

第一次世界大戦終結後にハリウッド映画が入るようになり、国内の映画会社は純映画劇運動で対抗していく、関東大震災で多くの撮影所が壊滅し運動も下火に。一時撮影は京都でしかできなかった。震災を挟んでも映画館数は次第に増加。参照した昭和4年の『日本国勢図会』によると大正9(1920)年には472軒(うち東京府62軒)、大正12(1923)年には701軒(うち東京府102軒)、震災後の昭和2(1927)年には1172軒(うち東京府202軒)となっている。

 

旅興行の話をする前に当時の情勢と映画について書いたのは、番組の内容の変わり様に驚いたから。圓生師匠は当時は不況でしたからねぇと軽めの調子だが、普通の調子では成り立たない不況がわからない。映画に客を持って行かれた時期かと単純に考えていたのを、緊縮政策のせいじゃないかと噂したという話を目にして映画の隆盛以外の寄席が不況になる理由について調べてみた。

世界恐慌関東大震災と続いてその後に歴史に残るクーデター事件が起る時代は調べてみても想像がつかないが、ほんの少し感触が近いものがあるとしたら新型コロナウィルスの感染拡大や情報として流れてくる同じ時代の災害や戦争かもしれない。景気も人気も気のものだ。

前置きが長くなりすぎたところで、若き圓生師匠の話に移ろう。

静岡入道館 昭和初期の五代目圓生一座寄席興行

寄席は不景気で客が来ないという頃の入道館。
時期は震災後、昭和の始め頃で先代圓生の一座。

一人で聴かせる芸よりも余興で盛り上げようとの趣向か
番組に落語は一席のみ。
六代目の圓生本人は何度も出番があって舞台にあがったそうだ。

大正10年は五代目三遊亭圓好、大正後半は四代目三遊亭圓窓で昭和に入るころに四代目橘家圓蔵となっているので六代目圓生師匠の圓蔵の時代と思われる。ここでは圓蔵だったという仮定で話を書くのでご了承いただきたい。

 

番組始めは『東西八景』と題した「かっぽれ」の総踊り。
前座が上がるところにいきなり一座が皆で浴衣の揃いにお客はびっくり。

その後は喜劇、軽業と続く。
軽業も噺家が楽しませる類のもの。

まず上乗りの太夫役で圓蔵(六代目圓生)が舞台に出て、剣舞の源一馬、音曲の萬橘二人が押さえて立てる太い竹によじ登る。
天井の方まで上ると事前に吊るしておいた舞台上前側の欄間部分で隠れるブランコに移る。
一馬が舞台で竹の上に人が乗っている体で棒を肩へかついで軽業のフリをする。
出初式の梯子乗りみたいなことだろうか。どちらかというとテツandトモの顎のせが思い浮かんでしまう)

続いて萬橘が「つぎなる芸当は、邯鄲は夢のまくら…」というと天井で圓蔵が「はアッ」っと掛け声だけして技を決めたフリをして、萬橘が口上で「あのとおりでござい」といって上を指さす。邯鄲は夢のまくらとは軽業や曲芸の技で涅槃仏のように横一文字に寝て手枕の形をして空中浮遊するという手品的なものらしい。

そんな調子で軽業を終え、上から圓蔵が降りてくるところにもう一工夫がある。芸が始まる前からの仕込みで、もう一つの天井ブランコに控えていた若蔵が太竹を伝って降りる。
アレ?昇っていたヤツと違う、となったところへ圓蔵が降りる。途中足をすべらして転び「いたい、いたい」痛がって騒ぎにしたところで
太夫さん、どこがいたいんだい?」と聞くと「軽業(体)じゅうがいたい」でサゲ。孝行糖っぽい。

人を食ったようなものだが割にウケたのだとか。技を見せるのでなく噺家がやるので口上も間合いも上手いのかもしれない。
東京でもやったことはあるが舞台上の構造で出来る場所を選ぶものだしというので ”だんだんわからなくなっちゃうでしょうねェ。”とは圓生の言葉。

若蔵とは三遊亭若蔵、のちに六代目三遊亭圓好となったが戦中に廃業して都庁の広報課の役人になった人物。途中広沢虎造一座にいて浪曲まじりの落語をして広沢若蔵といったそうだ。

軽業のあとは五代目圓生が落語を一席。

書かれてはいないが私ならここで仲入りにする。
なぜならその後は大切り大喜利)だからだ。

大喜利といってもテレビで見る笑点のようなものではなく、なんと先代圓生が扮装するという。その名も『東洋テレル夫人』

この頃テレル夫人という歌手か何かの大きくて太っている外国人の女性が来日したことがあった。通称「デブの圓生」と呼ばれた先代圓生の体格に女性の洋装姿をさせ、舞台にテレル夫人登場。そこに圓蔵の六代目圓生も洋服を着て出て歌い、先代圓生の夫人がダンスを始めるという・・・想像しただけでくだらなくて楽しそうな大喜利
掛け合いの末に先代圓生が「あたしはてれる」でサゲ。女装してきまりが悪い、の照れるとテレル夫人がかかっているというわけ。

表看板に(肩に「東洋」で)「テレル夫人来たる」と書いておき、テレル夫人とはどんなものかと近所で噂して見に行くとなんだ圓生がやるのかと客は大笑い。

これを人形町の末広でやった時に怒って怒鳴った客がいて、
「いやどうも、静岡のほうがよっぽど粋だってんでね、笑ったことがありました。」

『寄席切絵図』では興行の様子を実況中継よろしく六代目圓生の言葉が読めるので、そちらもぜひ手に取ってみて欲しい。

寄席切絵図 (青蛙選書 54)

六代目圓生コレクション 寄席切絵図 (岩波現代文庫 文芸 336) 

【バーゲンブック】 新版 寄席切絵図 新装版

ちなみに今時不適切かと思ってやや抑え目に表現した大きくて太っている外国人の女性、テレル夫人の姿を見つけた。
これは文章で読んでも想像がつかない、外国人だから大きく見えるというのではないサイズの女性だ。参照した博覧会資料には「場内呼物」「百三貫の世界一の大女」とあった。歌手ではなく「○○世界一」で話題になって世界を回っていた人ではなかろうか。

国産振興北海道拓殖博覧会第一会場 (世界一ノ大女テレル夫人),昭和6年 http://gazo.library.city.sapporo.jp/shiryouDetail/shiryouDetail.php?listId=465&recId=103435&pageId=1&thumPageNo=1 (参照 2024-02-19) 

前回大正10年と今回昭和初期と10年程で座長が四代目橘家圓蔵から五代目三遊亭圓生となっている。四代目圓蔵師匠は大正11年に他界。

これを書くのに一座の噺家を確認していくと、今ではありえない移籍や改名がたくさんあってある意味軽快。橘家圓蔵三遊亭圓生名跡を継いだ六代目圓生も太竹に上るのだ。昭和の名人はそれはすごかったのだろうが、圓生師匠のこういうところが面白い。自分の師匠や義父の一座で旅興行というリラックスした気分もあったのだろうか。

おまけ

偶然に大正初期の写真の中に入道館の幟が写り込んでいるものを見つけた。
恐らく2点とも同じ写真を使用したものと思われる。

〔静岡県のアルバム2、3〕大正初期, 静岡県立中央図書館デジタルライブラリーhttps://multi.tosyokan.pref.shizuoka.jp/digital-library/detail?tilcod=0000000027-SZ00246 (参照 2024-02-19) ※69コマ目

絵葉書「静岡市 七間町ヨリ札之辻町通リ県庁前 A Stereet of Shidzuoka.」
https://multi.tosyokan.pref.shizuoka.jp/digital-library/detail?tilcod=0000000032-SZ00001541 (参照 2024-02-19)
 

七間町通りから札の辻、その先の県庁を写したものだが、戦前の静岡市内の繁華街の様子がここまで瓦屋根のお店が続く様子だとは想像がつかなかった。
関東大震災の被害は県東部が甚大だったが、静岡市内も宝台院に避難する写真など残りその後の大火もあると思うと地震も火災も今では考えられない被害があっただろうと思ってしまう。

一方で大正初期といえば入道館の持ち主となった桃中軒雲右衛門の浪花節が大流行した時期だろう。入道館の幟に浪花節の大きな文字があるのも当然だろうと楽しい気持ちになる。

 

主な参考資料:

史料にみる日本の近代|年表|国立国会図書館

矢野恒太 編『日本国勢図会』昭和4年版,日本評論社,昭和4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1466353 (参照 2024-02-19)

 

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