直子の部屋

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静岡・入道館 その2 大正時代の静岡寄席興行 

先日紹介したかつて静岡にあった寄席「入道館」のお話をまた。

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四代目橘家圓蔵が静岡・浜松によく行ったことから
弟子の六代目圓生も若い頃一緒によく行ったそうで
昭和初期まで静岡の七間町にあった寄席
「入道館」へも大正時代から出ていたらしい。


『寄席切絵図』で圓生が取り上げている記事によると
大正10(1921)年9月の5日間興行の顔ぶれはこんな感じ。

 四代目 橘家円蔵
 三代目 三遊亭萬橘
 源一馬(剣舞
 五代目橘家圓好(六代目三遊亭圓生
 柳家燕花(三代目小さん門下、後 鹿野武左衛門
 小圓治(元二代目小圓朝門下 圓太、後に三代目小さん門下へ)
 橘家蔵造(橘家蔵之助の弟子)
 小金馬(二ツ目碓井の金馬の甥)
 橘弥(前座)

にわかに調べる素人自由研究では
上から四人しか素性がはっきりしない。
その他はネット検索したくらいでは詳細不明。

真打、看板にならなかった二ツ目止まり、生涯前座、といった人達は
入門や活動時期が曖昧で門人として残される資料に入っていない模様。

圓生は出版した昭和52年頃に知られている同じ芸名の人物との違いを分ける為に
本名や師弟関係、親類関係などを交えて丁寧に説明をつけ素性を書き残している。

驚異的な記憶力もさることながら
資料収集や調査をしている仲間うちとのやりとりも垣間見える。

インターネットも一昔前に比べたら飛躍的な情報量で
利便性も信用できる情報も増えたが 効率優先度が高い世界だからか
圓生師匠の本に残されていても情報として見つけられない。
需要がないからだろうが、その程度なのかと少し驚く。

噺家系図を深掘りするつもりはなかったのだが
橘左近先生の『東都噺家系図』辺りを広げてみることになりそうだ。

とはいえこういう時、ネット上の先人情報にもにぶつかる。
蔵造の師匠で上方で大看板になったという
橘家蔵之助についての記事だ。

落語家銘々伝 橘家蔵之助 : 上方落語史料集成

名古屋・大阪・金沢などの興行記録を拾われていて
浜松の勝鬨亭も名が出てくる。

偶然ながら蔵之助師匠は雲右衛門が上手かったらしい。
今の笑点メンバーのように全国的スターは旅先でもウケも良かったのだろう。

 

興行一座の名前を羅列しただけで大きく脱線してしまったが、
この9月1日から5日の興行では四代目圓蔵は『妾馬』『無学者』『宮戸川』『巌流島』『遠山政談』をかけたとある。
この興行での圓好(のちの六代目圓生)はすこぶる評判が良い。
ご本人はなにを演ったか忘れたというが、60年近く前のことなら当然だろう。

圓蔵一座の興行前には神田伯山、
前月8月には林家正蔵も来静していたらしい。正蔵は時代から六代目と思われる。

神田伯山は三代目の「次郎長伯山」との異名を持った人物と思われる。
清水次郎長伝」というと浪曲広沢虎造が思い浮かぶが
三代目伯山の次郎長伝がベースとなっているらしい。

清水次郎長親分も以前に明治時代・圓朝の静岡興行を調べたことから
全生庵を興した山岡鉄舟との縁で明治に偉業を成し遂げたことを知った。

静岡には次郎長よりも力があった親分方がいたのに
清水次郎長」の名が知れ渡ったことは演芸の力が大きい。

静岡の興行についてわずかに知り始めたばかりだが
東京で評判の芸人一座も旅興行でやってきて
東西各地の寄席や劇場に出向いていったことを思うと
清水次郎長伝が東のみならぬ「海道一の親分」となったのも
どこか納得がいって興味深い。

大正10年の圓蔵一座は色物を混ぜ、
萬橘が音曲師であったことを考えても今に近い落語の寄席興行だったのが
関東大震災後は少し様子が違ったらしいので次に紹介する。

寄席切絵図 (青蛙選書 54)

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