直子の部屋

笑ったり泣いたり踊ったり暴れたり推し事したり。

引いた線の向こう側

あまり政治の話についてあれこれ書いて残るのは好きではないのだけれど、SNSで流れてくるLGBT法案は誰が求めて進んでいることなのだろうか。
関心が低いから理解不足を承知で思うことを書いてみる。

個人的にLGBTQという人達に出会って話したりつきあいがあるとして、あまり違和感はない。もちろん恋人になるとか婚姻関係を結ぶとなれば悩むこともあるかもしれないけれど、それはこれまでの異性とのおつきあいと同じだ。
それよりもそもそもLGBTQという区別や線引きへの違和感が強い。理由は性とは別の線引きに苦しんだり違和感を感じてきたから。

世の中には見えない線が張り巡らされている。性別、年齢、学歴、職業、収入、既婚未婚、子供の有無、恋人の有無とか、性的経験、宗教観、があるかないかとか、比較の対象になる線引きは山ほどある。線引きをしてマウントを取っていたかと思えば、ハラスメントは良くないと言う。多様性を認めようと言いながらもゴシップに反応して匿名で叩く。いいねをして拡散する。良い循環とは思えない。

うつで療養していた頃、働くことが出来ない自分が他人にどう思われているのかとにかく恐ろしかった。どうにもできないし、本当はそんな「目」はあってもない。常識から逸脱していると思い込んでいたからだ。実際は常識の方が幻で、他人の目だと思っていたのは「自分の目」だった。気づくまでにとにかく囚われていた。

少し精神面が回復してきた頃、発達障害のコミュニティに参加していたことがある。皆で集まって話す会があると聞いて出かけてみると、初めて聞く言葉があった。「定型発達」という言葉だ。その言葉を使っている彼は、完全に定型発達(発達障害のない人)を敵とみなす発言をしていた。辛い経験と発達障害の診断と得た知識で、終始「定型発達の人間は自分達を差別している」と強く批判していた。発達障害の特性を差し引いたとしてもだれにも止められない憎悪を感じた。定型発達の人、つまり周囲との関係性で生きづらく生活に支障が出るほどではない人達が、発達障害を持つ人たちを偏見を持って差別した結果、発達障害を持つ人が定型発達を差別する。そういう構造がはっきり見えた。その時から、自分のために意図的に争いから離れようと考えるようになった。あらゆる線引きから一歩離れ客観的に見る癖がついた。その頃は、身近な所に認知症孤独死も宗教も がん もあった。加えて自分のうつや発達障害疑いもあって、社会問題と呼ばれるものが店に並べて売るほど揃っていた。でもそれらは全部身近な自分事であって、社会問題じゃなかった。事情も状況も何も知らない人間が、差別や偏見の目で憐れんで来たり、いかにも善人ぶってくる時、親切に受け止める必要はない。わかってない人間の言葉で傷ついて泣くとしたら自分を変えたほうが良い。逆にその中で本当に助けようとしてくれる人に気づく意識が大事だし、その大事な人を信じてみることや頼ることも覚えた。

世の中を良くするためのルールは、たくさんの人の生活を良くするためのもの。そのルールではやや曖昧になってしまうこともあるはず。そこで必要なのが自分の価値観やルールを確認することだ。周りに流されて他人を差別せず、できるだけ線を引かないで接してみる。逆に悪意に対して明確に線を引いて自分を守れるのは自分しかいない。社会に向けて作られたルールがそのまま個人対個人の関係に適用できるならそれは素晴らしいことだけれど、その守らなければならないルールを目の前の相手がちゃんと守ってくれる保証はない。相手を思う通りにしようとすれば、理から外れる。他人に守らせるための線を引けば引くほど争いの種は増えて、それは全て心配の種、怖れの種になっていく。他人をどうするかより、自分を理解して、理解してくれる人に辿り着くしかないのではないだろうか。

他人への期待は加減が難しい。大体は期待しすぎてしまうものなのではないだろうか。
逆に期待しすぎず自分に集中できる環境が調えば、想像以上の出逢いがあったりする。


立法に携わる方々の労力たるや、尊敬と応援しかない。逆に立法に尽力している人達の揚げ足を取ってじっくり議論させない状況を作り出す世界が広がり過ぎている。冷静に見たくても批判の情報に基本的情報が埋もれて見えない。メディアやSNSから離れた方が心は平穏だ。とにかく批判することが言論の自由かのように論破力があるアカウントが台頭する。トレンドタグは本当にトレンド(流行)で、今を盛り上げるだけ。立法が自分の価値観を他人に認めさせる為の道具みたいな捉え方をする人が多いような肌感がある。だれかの発言がすぐ真実かのように拡散される。対処する手段がなければ流れに乗る人が増える一方だろう。流されず止まると決めることができるのは自分しかいない。

法律があってもなくても、差別しないよう意識する、発信する前に言葉にするべきか考えることは自分の中でできる。制度設計を改善して、目的の数字以外の改善があるかもしれない。変化を実感するためには、国の制度と、自分ルールと、面倒だけど両方調整すると良いかもしれない。