直子の部屋

笑ったり泣いたり踊ったり暴れたり推し事したり。

人情は優しさで良いもの?

やるせない話題への意見をあちこちで見るようになった。

共感するものもありつつ、「人情は良いもの」「優しい人柄だから味方」と感じる発信にはとてもとても違和感がある。
多分良かれと思って、と言われたこと、された仕打ちが経験上に多々あるからだ。

 

人の情とは感情に繋がるもの。喜怒哀楽の境はない。舞台や噺しになる物語は起伏が激しいほどドラマティックになる。

伝統芸能で題材になるものは情によって人を憎み、許しを請いながら殺し首をとる、博打でできた借金を返すために子どもを売る、殺されて化けて出る…温情に包まれて円満に終われば良いけれど、よく考えれば恐ろしい人の情だらけだ。

現代の人は周りとの摩擦を減らして平和に生きていくために、ルールを敷いて現実で酷い物語を再現しないよう節制している。だから直接的に人に危害を加えずに発散できる何かに代替えを求めている。

ゲームや動画、嗜好品や趣味、エンターテイメントでバランスが取れるなら良いのだけれど、大概は節制で溜めるストレスは人との関わりから生まれる。正義と称してニュースになる事件や話題に隙を見つけると想像し噂を立て叩くことで発散しようとするものだ。直接的な暴力から間接的なハラスメント、代替え方法が人を傷つける道具に成り代わると律していくけれど果てしない。結局ルールを守れない人、守れていないように見える人を叩くいたちごっこだ。

ルールが守れないことは良いことではないけど、本当に発信された言葉が真実を言っているのか?言ってないよね?と思いながら見ている。噂を拡散するのも良かれと思っての行動。散々な目にあったと思っているからか、善意や正義を振りかざす人がいたら疑っている。トラブルがあったら両方の言い分と行動を見る。

表面的に見える言葉だけで判断できないと思う。

世の中で裁判所を「利用」してゴネ得を生業にしているような人は、いる。いるんだ。

 

もうひとつ、被害者意識。これは怖い。自分も強く強く持っている感情だから。
被害者は相手をギャフンと言わせて謝らせたい。正しい例ではないけれど、感情面だけでいうと半沢直樹方式。日本人が大好きな勧善懲悪。弱きは強きものに助けられ、悪は負けなくてはならない。
ハラスメントに区分されているものは、客観的な判断が必要で、そのために客観的証拠を集めなくてはならない場面が出てくるけれど、人間関係を修復しようとしたら、有罪にするための証拠を集めることよりも…どこで許すか、執着を捨てて水に流すか、あるいは逃げ切るか、を考えなくてはならない。

 

優しい人。これはどうだろう。
優しさは憂いの感情を含んでいる。場合によっては怒りを増長させる要素がある。
言い返さない、言い返せない相手にばかり強く出る人間もいる。
相手の要求を飲む状況が続くことで依存関係が成立してしまう。
マインドコントロールの状況に陥る。これは被害者側だけでなく、加害者側にも勘違いさせる。そして受け身でいた優しい人は優しくあろうとした結果、限界を迎える。
ストレスを溜め続けて体を壊す、加害側に回る、賠償請求する裁判という方法も含めて優しさを捨て、戦いに出るか見捨てて体を癒すしか方法がなくなる。
個人的にはそこまで行く前に手を打った方がいいと思う。深手過ぎる傷。回復に半生を費やしてしまう可能性がある。

 

そして悲しいかな、人の相性というのはある。相性とはエネルギーの関係性のこと。
どんなに慕っている相手でも、エネルギーが奪われる関係性というものがある。
接するほどに元気をもらう関係性もあるけれど、反発しあう関係性は疲れを生む。
同じことをしていても疲れる度合が違う。苛立ちも増す。愛が憎しみに変わる。優しく受け止めようと努力して耐えるほど自分も相手も傷を受ける。早めに距離を置く必要がある。こればかりは自分の感覚だけでは判断つかないのだが。

 

戦うと決めた決断はすごいと思う。けれど、、、正直思うことは訴訟にして世の中の人に知ってほしいのが最優先でいいのだろうか。調停とか第三者に入ってもらう他の方法なかったのかな。訴訟に至った経緯を知らずに想像で言うのは失礼かもしれないけれど、外から見ると目には目を、という闘争心に見えて、似ているのでは、、と思ってしまう。訴訟にするにしてもゲリラ的に発信しなければならなかったのだろうか。
効率的に情報拡散して世の中を動かそう!みたいな気風を感じると怖くなる。
むしろ情って軽んじられているな、と思う。人間の感情なんて非効率で害しかないと言わんばかりに。

丁寧に聞けたら違う流れがなかったのだろうか。相手にも至る経緯がある。
自分で聞けないのなら、間に入ってもらう。そういう頼り方が苦手だと、自分で頑張ってしまうものだ。これは訴訟を起こした方も、弟子を取った側にも、思うこと。
ああいえばこういう、手が出る憎たらしい師匠は、怖がられるから期待に応えて怖い人間になったのかもよ。あえて可能性としてゼロでないと言いたい。

師匠の言うことは絶対だ、とは聞くけど、それは師弟の信頼関係の上に成立することで、そもそもの信頼関係がないところに理不尽を置いているなら、それを叱る存在がなければ成り立たない。法律に訴え出る前に協力し合ってなんとかする、という人間関係はもう古すぎて伝統芸能の世界でも使われないのだろうか。それが人情の要だと思うのだが。


人情噺を演る人間が感情的ではいけないなんて思わない。
むしろ喜怒哀楽を知らなかったらできるわけがなく、人間の心の弱さを知っていなかったらできない。戦ってばかりの人間にはできない。相手ばかり責める人間ではできない。演技だし、そうでもないのかもしれないけど。

 

とにかく師弟で面白くなくなるのは残念。いつかはそれぞれ笑い噺しにしてほしい。
つまり良い距離で、それがかなり離れる距離であっても、間にたくさんの仲間に入ってもらってもいいから、切れずに繋がって欲しいものだ。
それが出来たら、元お弟子さんだけでなく、師匠の周辺も環境も変わるだろう。

組織がどういう考え方か、なんて割と興味ない。それよりもまた同じことになりそうな時、こうなるまえにそうしたかった、をアドバイスする存在になってほしい。経験者はその間合いがわかるはずだ。
噺家さんは私ができないことで楽しませてくれる存在であり、思わず感心する言葉を操る人達。たとえ年齢やキャリアが浅かったとしても、私が知らない世界を見ている。良い先輩と仲間がいる人達だと思っている。悪い見本は笑い話のネタにして、良い見本はついていきたい人として紹介して欲しい。