直子の部屋

笑ったり泣いたり踊ったり暴れたり推し事したり。

自分を成功させないのかも

清貧は美しいのだろうか。

かつて貧しかった人が苦労をした後出世したら、成功した後も所謂清貧なのだろうか。暮らしが変わるわけではないなら本来の清貧の意味からは違わないかもしれないけれど、成功してしまったら清貧には入らない。感謝の気持ちからの賞賛も対価も受け取れない、豊かさを受け取らないイメージさえある。成功することや有名になることには清らかさがない、抵抗がある、そんな裏メッセージが隠れている気がする。

 

苦労して頑張っても貧さから抜けられない。世の中間違ってる。そんな考え方がある。

間違ってる世の中で上手くいく人間も間違ってる、と言いたげな妬み嫉みの含みも感じられるけれど、多数決なら勝つだろう。前半の報われない気持ちも、後半の嫉妬も。

 

だから自分を成功させない

のかもしれない。

 

清貧を美談にするのは日本人らしい様にも思うけれど、日本人は貧乏は好きではないと思う。ここまで生活水準を押し上げて、世界中の国に旅に出て交流できるのだから。生活格差をなくします!と選挙公約にすれば票が集まるのだから。

苦労して成功を掴んだ人はカリスマとして扱われるけれど、有名人は成功者として私生活やゴシップを探られて、ネタがあればマスコミから匿名一般人総出でアンチが叩く。

SNSでありふれた光景が見慣れすぎて、無意識に成功者が受ける仕打ちをリスクとして避けているのかもしれない。

大きな成功だけでなく、普段の些細な上手くいったいかないにまで、頭や心の中でジャッジする習慣がついてしまっているのかも。

できたことを褒めないで、できないことには厳しい指導。知らぬ間にされたら怖い指導を自分にしてしまっているのかも。

 

幼稚園からずっと先生には恵まれていた記憶しかないのだけれど、社会人になって理想の先生と長く過ごすことが無くなって、ひたすら褒めない厳しい先生を自分で自分の指導者に選んでしまっていたのかもしれない。こだわりやプロ意識が強いほど、褒めない指導になりがちだ。

他人にマウント取られたり叩かれたりするのはもちろん嫌だけれど、自分を成功に導かない指導者はもっと嫌だ。しかも自分ぐらい近い所にいつもいるなんて…嫌すぎる。

先生には恵まれていた。先生方はどう言ってくれるだろう?できないことにもこう言ってくれたら、どうしたらいいか一緒に考えてくれたら。

気持ちを回復させてくれる人を想像して、心や体が強張ることから離してくれる言葉を自分にかけてみよう。成功したら一緒に喜んでくれる指導者を自分の中で育てていこう。

そんなコーチがいたら、自分が無理した時は必ず休ませ、踏ん張りどころは伴奏してくれ、上手く行った時は抱き合って喜んで、成長を促す時は課題を冷静に捉えて乗り越えるプランを立てるはずだ。

そんなコーチいたら良いなぁ。しかも自分ぐらい近い所にいたら、辛い時も一緒に泣き腫らして、さ、次いくぞ!って背中を押してくれるはずだ。