直子の部屋

笑ったり泣いたり踊ったり暴れたり推し事したり。

わかってもらえないから磨いてたこと

外は雨と風が時々激しくなっています。線状降水帯というのだそうで、止んだと思ったらまた激しいのが来る。人の感情に似ていますね。

この時期は鬱々としてしまうものですが、私は毎年5月から7月は特に低調になるので気をつけて過ごしてきました。けれどまあいろいろあって、今年は久しぶりにしっかり休養が必要になってしまいました。以前の養生ほどではなさそうですが、コロナ禍生活を真面目に過ごした分、酸欠しているみたい。抱え込んだりする昔の癖が抜けず、無理していたことに気づいて切り替える準備をしていたのに間に合わなかった。それが残念でクヨクヨが続いてしまう日もあります。

ただ少し幸いなのは、前にも失敗しているから、悪く考えてしまう思考の癖と感情的な行動を「今してるな」と気づけること。「今してる」と気づくまでに若干時間を要することもあります。感情が昂っている間に割り切るのは難しい。これがわかっていると、迷宮は少し小さくなって脱出は早くなります。今最中の人はぐるぐるしつくす方が早いかも。自分にわかる言葉やヒントをくれる存在は必ず見つかるけれど、辛くて力んでいる時にはなかなか届きません。

力を抜いた方が上手くいくことがわかっていても、できない時は今もあります。しょうがないと思えるまでちょっとかかる。そういう時は感情が動いている。動いているというかものすごい力で止めているというか。素晴らしい作品に感動する時も、目の前で嫌なことをされてムカついている時も、プラスかマイナスか方向の違いで波立つのは同じなんですよね。

 

昨夜ふと、自分の性格を言い表わす言葉を思いつきました。「内面の癇癪持ち」です。直接会ったことがある方の中で、これを理解してくれる方はあまりいないと思います。完全に「自分が観ている自分」のことで、長く「制御」を試みていることでもあります。長く訓練した結果、ある程度スキルとして使えるようになりました。特に人と接する時、接客が仕事になった時に褒めてもらえるようなこともありました。これは思い返すと、これは「内面の癇癪持ち」を外に出していた子供の頃から、嫌な思いをしては対策を繰り返した結果だったと思います。

元は表情に乏しく口が下手で横柄に見えるタイプ。変に冷静に見ているところもあった様で、特に感情的な人には嫌われました。一歩引いて見ているのが苛立つみたいでした。大人になると客観的だとか俯瞰的だとか良い面として受け取る人もいますが、見た目が冷めていて何を考えているか不気味だったのだろうと思いますが、周りの人に言われた誤解の言葉やぶつけられた感情がキツイこともありました。言い返しても仕方ないと誤解のままにすることも。大声で罵り合う喧嘩は大の苦手で、「雨降って地固まる」方式はなかなか難しい。相手が落ち着いた頃を見計らって何もなかったように話しかける手法で、なんとか相手の気持ちを理解しようと解釈改善をすることが多かった。これはスキルとしては良い面がありますが、自分の感情処理としてはあんまり健全でないところがあります。

表情に乏しく横柄に見えるところと矛盾しますが、好きで楽しいことには素直に体も表情も反応するようで、褒められるうちに気づいた自分でした。それに気づいたら嫌なことにも表情がついてきてしまうようになりましたが、少し楽になった気がします。何を考えているのかわかってもらえないことから好き勝手に浴びせられる言葉が減ったのかもしれません。躱すことを覚えなさいとアドバイスしてくれた人が居たことには感謝しかありません。今の世界は自分のことでもないことに一生懸命反応して解説して不快にさせる情報が山のようにありますからね。

「内面の癇癪持ち」の私にはまだまだ円滑にことを運ぶために堪えたり抱え込んだり、それをまた自分自身にも隠す、というような複雑に入り組んだ感情や脳内処理があるんだろうと思います。癇癪とは怒りの感情のコントロールができない状態だそうです。表に出てしまう人に遭遇すると怖いと思う事もあるし、仕事として対応することもありましたが、ある種素直な人だし、止められないぐらいの状態までになる理由はありそうです。かといって余計なお世話は怪我しますよね。そこに気づくのにも時間がかかりました。突然怒って止められない人が怖かったから対策してきた面もありますが、他人の世話している場合じゃない(笑)

感情の領域を効率的に処理するのは無理だ、理に反すると思っている。なのに早くなんとかすることを求められる。だから嫌になっちゃうのかもしれません。実際のところ、感情的になっている人の話をきちんと聞くことで情の深い方なのだとわかることは沢山ありました。時間が解決してくれることもある。だからその場で全てが解決できるわけではありませんけどね。こちらとあちらがありますから。

その場でどうにもならなかった時も、相手の立場を考えることは多かった。離れてから思い遣れることもあると。自分のことをわかってもらえなかったから、理解しようとしたのだと思います。「なぜ相手の立場を考えられないのかな!」と思うことは多かった。多分考えられないのが自然で、考えられる人はそれがひとつ才能かもしれません。相手の立場がわかるからこそ、こちらの意見を上手く伝えられなくなったりもしますしね。単純ではありません。

外と内との調和、バランスは一度とれてもまた波立ちます。繰り返しメンテして、無理なく過ごせるよう環境整えたり底上げしたり。近所の景色が見えるぐらいに気持ちが落ち着くと、街路樹や花壇の花、公共の場所の清掃など当たり前に整えられているものへの手間に感心します。仕組みができていて、習慣(サイクル)ができていて、躾けられて嫌だったことの中にも、捉え直して続けられる方法で取り入れてみると落ち着くことがありそうです。

休む時間を休養に、養生にできると、好きなことをして時間を過ごすのが体や心の栄養になって「必要なこと」だとわかります。ただそれを他人に理解してもらえないと嘆くのは蛇足かもしれませんね。わかってもらえないことへの「内面の癇癪」に気づけていなかったのかもしれません。抱えていることに気づくのが毎回やや遅い。遅れる理由も性格や感情にまつわるところがあり上手くいく仕組みが欲しいところです。相手の気持ちをわかろうとしているうちに実はわかってもらえないと癇癪を起こしていた。複雑な機械のトラブルをチェックしていて「これか!」と気づいた感じで、周りに合わせる前に自覚しておきたいことです。

他にも複雑処理(=面倒な思考の癖)をたくさんしている自覚があるので、書き出すことで内面の癇癪に納得していきたいと思います。

 

f:id:entsunagi705:20230602182122j:image
f:id:entsunagi705:20230602182126j:image

少し話は変わりますが、昨日久しぶりに国立劇場へ行って落語と前庭を楽しんできました。この10月で建て替えのため落語会も「さよなら公演」と銘打たれていていました。この劇場は落語をきっかけに大好きになった場所でもあります。好きな噺家さん達が話すマクラにいろんな感情が湧いてきます。好きな人達の言葉は素直に聞き入れられるから、共感して気づけることがありますね。

思い出したことを書いていたら取り止めがなくなってしまったので、また別の機会にと思いますがひとつだけ。

他人にわかってもらえない、自分を見たくない気持ちを暗い客席で隠してくれる。喜怒哀楽、憎しみも愛情も感情豊かに人が表現される舞台、人生の物語を見たのが芸能舞台の魅力を知ったきっかけでした。最初は子供の頃の映画館なんかだったと思います。落語をきっかけに客席に座ることが再び増えて、気持ちのやりどころがなくて自分が嫌いで別人になりたい気持ちを持っていた頃を時折思い出します。性格が変わったわけでもないのに当時と比べて見方は変わり、観たいものの好みが変わったのは気持ちの変遷かもしれません。

落語の客席はほとんど明るいですし、始終笑っているのであまり感じませんが、笑って力が抜けて思い浮かぶことはたくさんあります。

人生で辛いと感じた分笑えてきたかといえば、まだまだ。同じだけ笑えればいいのか?なんてあちこちから気持ちが飛び出して収拾がつきませんが、落語はまだまだ楽しめそう。

落語好きから思いがけず経験した国立劇場での思い出は喜怒哀楽全部入りで、更に書き残したくなることがあります。昨日は落語の後に見つけた好きな話もありました。またそれは別の機会に。