直子の部屋

笑ったり泣いたり踊ったり暴れたり推し事したり。

「師匠」「推し」「ファン」あなたなら何て呼ぶ?

クリスマス効果で最近「推し」を連呼し過ぎていますが
私は落語家さんを呼ぶ時には
真打なら「師匠」
二ツ目や前座は「さん」付けでお呼びしています。

あなたは何と呼ばれていますか?

 
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呼び方は少し例外もあって
上方の師匠方を親しみを込めて
「さん」付けで呼ぶ場合もあります。

 

例えば、笑福亭たまさんは「師匠」呼びできません。

尊敬していないのではなく
「師匠」と呼ぶ方が親しみを表現できない気がしてしまうのです。

お着物の華やかさで時に「お殿様」感があるのに
べらべらべらっとお話されるのが良いですよね。
東京かわら版の表紙でになった時のお着物は忘れられません。

 

意識しているわけではないのに
感覚的に東の落語家さんと西の落語家さんで
呼び方に印象が出るのが面白いところです。

 

個人的にはあまりしたくないのは「呼び捨て」でしょうか。

これは違和感なくされる方もいるのですが
落語家さんかどうかに関わらず
あだ名で名字で人を呼び捨てにすることも
減ったからかもしれません。

違和感を持ったり
敬意が無いように聞こえたりするなら使わない
という感覚的な選択です。

 

同じ呼び方でも
憧れの師匠、年下の落語家さんなどと
無意識に尊敬や目下と見ている気持ちが隠れているものかもしれません。
見下しているつもりなど無くても
相手が感じたら不快になる
ということは意識して注意したいところです。

(丁寧過ぎるのも怖いですけども)


それから追いかけている師匠がいる、
けれど自分を”贔屓”とまでは呼べません。

” 落語が好き ” といえるのか疑問で
楽しんでいることは確かで
落語「ファン」、演芸「ファン」ではあると思うので
「ファン」と名乗っています。

 

兼好師匠を「推し」と呼ぶのは一種遊びでもありますが
割としっくりくると思って使っています。

ただ、いわゆる「推し活」について良く知らなくて
ちょっと検索しただけで出てくる
「推し活応援」「推し活グッズ」を見ると
あきらかについていけない領域で
私の推し活は「似非(エセ)推し活」なことは明らかです。

そういえば池袋で仕事をしている時に目にしていた人達
あれが本物だったんですね(遠い目

 

私のエセ推し活はやはり
一種時流に乗った「つもり遊び」です。

 

「推し」に違和感がある人も
「師匠」と呼ぶのには慣れない人も
あると思うのですが
これは人によって
感覚が表現に出るのではないかと思います。


私の場合、兼好師匠のことは
落語に通うようになって身分制度を知った後も
しばらく「兼好さん」と呼んでいましたが
追っかけるようになった後
「兼好師匠」と呼ぶようになりました。

むしろ「さん」付けが恥ずかしくなってしまいました。

 

確実に私を笑わせてくれる師匠に
より強く間に一線、
敬意や信頼の線を引いたのかなと思います。
少しだけ特別感のある敬称です。

呼び名で気持ちの変化を感じたのは
面白い経験だと思います。

 

落語を通して知り合った落語仲間の老若男女が
兼好師匠を目の前にして
緊張したり見惚れたり
仲間同士でキャッキャと
師匠の好きな所を話す様子は好きなシーンで
実は目撃してはニヤニヤ。

自分事のようなうれしさがあります。

 

もちろん兼好師匠だけでなく
自分の推しを目の前にした落語仲間を目撃できた時も
普段通り振る舞えない様子に
「わかる・・・」ととにかく共感。

上手く言えませんが人の可愛らしさを見て
目が細くなるような。
どんな人にもあるもの。

いい大人は普段にしっかりすることを求められて
仕事に家事に育児に追われて
オジサンオバサンになっていきますが

大人になっても
誰かに憧れる気持ちがなくなるわけではなく。

 

老若男女関係なく乙女心出す時あってもいいよね

というか

必要だよね

 

と思います。

 

大人って子供の自分も消えるわけじゃなく
持ったまま出さなくなるだけ。

大人になるまでもなった後も
あれこれ訓練して
自分でも隠しているのを忘れてしまったりします。

抑えているストレスを逃がせないと
不機嫌も不健康も頻発します。今年の私です。

 

 

落語家さんを推しにして良かったことは
推しとの距離が程よく近いこと。

 

推しとの距離が遠くて、憧れる人の数もすごい世界は
遠いからこそ影響力も大きくて
ファンの裾野も広くなるけれど

流される噂に翻弄されたり、誤解が広まったり
起こるトラブルも大きくて

好きだったのに信じられないとか
そんなひどい人だったのかとか
手のひらを返すような言葉がすごい数飛び交う度に
人が信じられなくなる。

 

演芸の場合(全くないわけではないと思うけど)
行き過ぎる自体は少ない気がします。
最初から冗談込み毒舌込みだけど
信じられない!のを面白がって見に行く。

そこが程よく近くて良いなと思うんです。

師弟とか関係者とのトラブルは
逆に距離感近すぎるのかもしれませんね
家族に近い意識になるのかも(蛇足)

 

先日部屋に飾り付けた
兼好サンタさんのクリスマスコーナーを見た方が

 

「推しの神棚は滋養が高い」

 

という名言を授けてくれました。

 

entsunagi705.hatenablog.com

 

ようやく滋養が高いものを摂取しようという位には
気持ちも回復してきたのかもしれません。

たしかに神棚?を設置してから
元気も出てきた気がします。

 

「推し」を「神」と呼ぶこともありますね。
アニメでも歌舞伎でも
神社は結びつくのを見かけます。
そういえば「推し活グッズ」のサイトに
神社のジオラマがありました。
神社の前に推しを並べて飾る(祀る?)らしいです。


神になった人は推された人という意味で
あながち間違ってないのかも。

日本人って無宗教なんかではなく
いろんな宗教の習慣を取り入れまくって
それぞれ「推し神」がいる段階なのかもしれません。

 

「推し活」の見方は人それぞれですが
会えたら元気になれる人、嬉しくなる人
伝えたい言葉ひとつも言えない位憧れる人
いるに越したことはありません。

 

特に落語の世界にそういう人がいて
映像や音源でしか体験したことがないのなら
生で、できるだけ間近に見れる場所へ出かけて
「浴びる」体験をしてみてください。

もしかしたら呼び方さえ変わってしまうほど
毎日に変化が現れるかもしれませんよ。
(これも私です)

 

おまけ

「私です。」のフレーズは
少し前から共感度が高いこの方のものです。

悩んでいる人にお伝えします。それは社会なんてほぼ茶番なのに「マジになりすぎ」です。「ショートコント!社会人!」が延々と続き、それに沿った登場人物を演じるだけです。これが仕事ができる人です。でも悩む人は「なんで今日も茶番をやるんだ?」とマジになりすぎです。私です。

— ぱやぱやくん (@paya_paya_kun) 2023年11月26日

まず名前から軽くて刺さるんですが、
刺さる時に限って最後に「私です。」が来ます。

ぱやぱやくんさん、呼び方難しい方です。

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