直子の部屋

笑ったり泣いたり踊ったり暴れたり推し事したり。

『東京人』+『寄席切絵図』=落語界今昔100年

静岡の寄席話からちょっと脱線して
午前中に圓生師匠の『寄席切絵図』の神田の項を読む。
東京の「入道館」のことが書かれていたからだ。

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神田には白梅亭、立花亭という有名な寄席があったとか。
噺家が団体を結する前からの話が書かれていて興味深く読んだ。

寄席切絵図 (青蛙選書 54)

【バーゲンブック】 新版 寄席切絵図 新装版

 

時間を空けて3月号の『東京人』落語特集を読む。
まだ読めていない記事を楽しみにしていたからだ。

読み始めるとなんだか繋がってくる。

既に読んだ記事の写真には白梅亭の文字や立花亭も出てくる。
立花亭の写真のキャプションには圓生師匠のエピソードもある。

静岡の入道館の話でよく知らないと書いた人形町末広も
なんでか高座側も客席側も演者と共に写真が出ていた。

 

『東京人』で現代人が語る話と
圓生師匠が脳内で語る『寄席切絵図』の話が繋がる。

落語は知る度繋がってくる面白さが噺の外にもあるのが楽しい。
芸名や師弟関係で繋がった人達の名前が歴史になって残るからかもしれない。

 

『東京人』の落語協会100年特集

「最近落語に興味を持った人は果たしてこれをどう読むのだろう?」
と思いながらも、個人的には自由研究と地続きで楽しい。

演者のインタビューや名人上手の話だけでなく
さまざまな目線で取り上げられた記事が読み応えあり。

落語協会が設立される前夜から現在までの流れがわかる。

噺家と寄席が落語協会を作ったことには
それが必要になった時代があったから。

寄席や高座や生活を守るために
束になって工夫して先人が乗り越えてきた100年の道。
その先に楽しんでいる今がある。

とはいえくっついたり離れたりが度々あり
組織でなく人で見えるのもこの世界らしい。

落語協会創立100年を契機にしたことで
当時の新聞記事や昔の貴重写真も載っていて
お囃子さんや色物の歴史も再確認される動きがあるようでうれしい。

寄席囃子は国立劇場の養成事業になった経緯は前から知りたかったし、
太神楽のことももっと知りたい。

寄席文字の橘右樂・紅樂のお二人は以前から気になっていた方々だ。
静岡の圓朝興行のビラを見つけた、
橘右近コレクションに関わる方だと耳にしたことがあったから。

右樂さんの記事は去年調べたビラや寄席文字について
より立体的にわかる記事があり興味深く読んだ。

まさに「どっぷり、落語!」の一冊。

月刊「東京人」 2024年3月号 特集「どっぷり、落語!落語協会創立100年」 [雑誌]

月刊「東京人」 2024年3月号 特集「どっぷり、落語!落語協会創立100年」 [雑誌]

 

『寄席切絵図』で知る関東大震災前後の様子

神田連雀町の白梅亭は三遊びいき、
新石町の立花亭は柳派びいき。
その前は逆だったこともあったらしい。
縁のあった大看板で状況が変わることがあったようだ。

圓生義太夫語りの頃から出ていた白梅亭の席亭には
なにかとかわいがってもらっていたそう。

それが大正六年に演芸株式会社が出来て
対抗して睦会が出来ると寄席も両派に別れてしまい
白梅亭は睦会派になり圓生師匠はしばらく出る機会がなくなったとか。

その後大正12年9月 関東大震災
翌月には東京落語界が団結し落語協会を創立。
(このあたりは『東京人』でぜひどうぞ)

当時は月三回、興行の2日目(2日、12日、22日)に
「顔直し」という寄合いをして初日の不都合を調整していた。

これをしばらく白梅亭でしていて
都度200人近くの芸人が集まって客席で手直しをしたそうだ。
想像しただけで大変そう。

しかも寄合いに行くと くじだの芝居の切符だのと
つきあいに十円位かかってつらかった、とは圓生談。


東京都内の寄席は大正10年で15区90軒余り、郡部40軒で計130軒
関東大震災後の大正15年で15区内96軒、府下89軒で計185軒。
昭和7年までは東京市は15区、品川などは府下の郡部に入る)

この件数は落語色物席だけでなく
講談や浪花節の席も含まれているとはいえ
数件の掛け持ちは当たり前。売れっ子は座敷もあっただろう。

移動も通信手段も今と違うことを考えると
必要とはいえ200人を取りまとめるには大変な労力。

掛け持ちや脇の仕事は今と同じに思えるけれど
寄席の数と演者の人数のバランスも今と全く違う。

客入りや収入のことは演者と寄席の考えはそもそも視点が違うはず。
しかも復興と同時進行で。
ひとつひとつ打つ手を積んで。
創成期だけでなく100年の間に揉めないわけがない。

震災や戦災の計り知れない体験を越えて、
今の演芸と寄席の形があることを
コロナ禍の経験で多少ではあるけれど実感を持って読めるのは間違いない。

私自身は寄席育ちの客ではないけれど、
日々研鑽の場としての定席を維持できない環境になったら
消える可能性が高い存在はあるだろうと想像する。

一度消えたら他の伝統同様に技が消える。
芸や技を支える道具も人知れず無くなるかもしれない。
数年前に三味線修復の技術継承が危ぶまれたように
成り立ちと今を知ると自然復活は難しいものがある。

危機感に縛られるのも演芸らしくないけれど
その存在が知られていくことで関心を持つ人が増えるように
落語と演者とその周りを支える人達も
もっと記録が残されていって欲しいと思う。

 

100年後の演芸、想像もつかないけれど
何を残すか、何を手放すか了見が肝心だ。

 

おまけ

落語協会の前の時代も気になっていたところ
先輩記事に興味深いものを発見した

松風亭日乗: 大正時代の東京落語界 ~演芸会社と睦会~

落語会で揉めた、というとまず浮かぶのは
昭和に圓生師匠の脱退で起きた分裂騒動かその後の談志師匠の脱退。

定席の数が少ない中で定席に上がれなくなった人達は
別の場所に高座を作っていく流れを作ったけれど
震災のようなことが起こる前に組織化を狙った理由と
導いた船頭、覆した人達のことが知れて納得。

鈴本の存在感も含めてなんとも落語界らしい。

 

昭和の分裂騒動は推しが二大協会に属していないこともあり
高座のネタで弄られるのが割と笑えなくて
円丈師匠の本も持っていながらしっかり読んでいない。

その弄りが感情的な揉め事に聴こえて不快だったのだが
案外商売で考えれば全うな判断もあるのを
面白おかしく話す人達の言葉で聞くことで誤解していたのかと思う。

円丈師匠がどんな気持ちで書いたかは別として(笑)
話題性を持たせるために、好みでない書き方で掻き立てる手法はある。
話題そのものより囃し立てる人がいるのが不快な場合もあるし。

ただこの数年で東京四派と上方の関係性も
ますます和やかに感じられるようになったし
流れがわかることは楽しいのでいろいろ読んでみたい。

紹介したブログの中に出てくる『図説・落語の歴史』も読みたいし
上野鈴本のHPにある「寄席主人覚え書」も以前より楽しめそうだ。

 

図説 落語の歴史 (ふくろうの本)

図説 落語の歴史 (ふくろうの本)

 

圓生が興行していた静岡の寄席「入道館」

久しぶりに静岡の寄席話を。

 

六代目三遊亭圓生師匠が残している本には
寄席や寄席の楽屋話の記憶を残そうという趣向のものがあり
生の高座へ足を運ぶのとは別に個人的に大変好み。

 

その中で先日から時々名前を出していた
『寄席切絵図』に静岡の寄席や興行をした場所がいくつか登場。

主な2つが静岡の「入道館」と浜松の「勝鬨亭」

 

勝鬨亭は古今亭志ん生師匠に縁があるらしく
大河ドラマ「いだてん」にも登場したらしい。

静岡の「入道館」には大正時代から戦中まで
何度も行ったことが書かれている。

 

入道館は七間町にあった寄席。

七間町通りから今の両替町通りを少し入った所という説と
通り沿いで呉服町側から行って両替町の通りを越えた辺りの説有り。
(七間町のアルティエ、またはスルガ銀行の向かい辺り)
地図や写真も残っているけれど、何しろ残っていないので推定。

 

東京の人形町末広より少し奥行きがあり
大きいが畳敷きで桟敷はない。
客は普段でも120~130は入り、物日や顔付けではもっと入ったとか。

今では人形町末広も現存しないのでわからないが、
新宿末広亭が1階椅子席と桟敷で193席、
2階が桟敷120席に一部椅子がつくということなので
1階を畳敷きにした位かもう少し大きかった感じを想像する。

 

関東大震災の少し前まで寄席興行は15日ずつだったので
静岡7日、浜松8日といった振り分けをして行ったそうだ。

その後東京の寄席が10日興行となっても
東京同様に10日間交代で静岡・浜松で興行が打てたという。

少しだけ旅先、という静岡は場所柄の思い出があるようで
入道館については興行の思い出も詳しく書かれている。

 

圓生師匠によれば、

 静岡へ行きますと、これァ七軒町というところに、入道舘というものがありました。
 これも、もとはなんとか別の名前だったんでしょうけれども、神田美土代町の入道舘と同じように、浪花節の桃中軒雲右衛門のものになってから、入道舘となった。あたくしどもが知ってからは、経営者は、もう雲右衛門ではなく、伏見亀太郎という人がやっておりました。でも、名前だけは、ずっとのちまで入道舘のままでいたわけで。

そう、入道館の入道とは浪曲のスター、桃中軒雲右衛門。
後年剃髪して雲右衛門入道を名乗るようになり
入道になってから東京・神田美土代町に入道館を持った。

 

神田と同じように静岡にも寄席を持ち、
後に別の経営者の持ち物になったが名前は残る。

浪曲の格を上げ劇場で興行できる芸にした雲右衛門。
そのブランド力にあやかりたいのは当然のことだろう。

静岡育ちなので伏見という姓を聞くとふしみやの親戚筋かと勘ぐるが
ふしみやは京都の伏見で名前ではなかった。

 

実は桃中軒雲右衛門については、以前の自由研究でも見かけていて
明治時代静岡にあった別の寄席との縁が書かれていた。
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その寄席は雲右衛門が出世する前に廃館。
別物といえ静岡に寄席を買った理由が気になるが不明。
だが、入道館の前の名前は資料が残っている。

 

桃中軒雲右衛門入道が買った寄席の名前は「開情亭」

 

静岡市内にあった寄席としてはかなり古く
明治14年頃には営業している記録がある。
明治前期の中心街商家一覧としてまとめられたものには
「開情亭 官許 上等席、諸芸宝の入船、定席」とある。

 

「開情亭」が「入道館」に変わった境目を調べると
大正2年9月に開情亭近隣で火災があり木戸門が焼け
次の年の3月には入道館に名が変わる。

雲右衛門入道のレコードがついに発売され
歌舞伎座の舞台に立ち、
関西の興行で大金を得たと取り沙汰された全盛期の後の事。

もし買ったのが大正2年の秋から3年の春の間なら
本人が持っていたのは長くても僅か2~3年。
金遣いについても豪快で有名な雲右衛門らしいというのかどうか。

 

圓生師匠によれば、明治・大正は
講談は釈場、義太夫席、浪曲浪花節席と専門の席があり、
落語をかける席は音曲、手品、曲芸などの色物をまぜて興行し
「色物席」と呼ばれたとか。

 

圓生師匠が来た大正・昭和初期頃は娯楽の中心はカツドウ、映画で
静岡にあった色物席は入道館だけだったようだ。

その後入道館は戦災で焼けてしまい
静岡に色物席、寄席はなくなってしまった。

それでもこの寄席は明治大正から名前を変えて
昭和初期まで続いた寄席ということになる。

大正から戦中までの入道館と静岡の思い出は圓生師匠が残しているし
以後の時代に落語会を催す席亭は戦後も今もいる。

 

若手時代の圓生の静岡旅興行の話、
桃中軒雲右衛門の静岡話、
その他明治大正の寄席にまつわる話が続きます(多分

 

主な参考文献

地図:

静岡新聞社 編『なつかしの静岡』,静岡新聞社,1982.4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9570659 (参照 2024-02-11)

東京交通社 編『大日本職業別明細図』,東京交通社,昭12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/8311839 (参照 2024-02-11)

静岡市復興地圖(1940) , 国際日本文化研究センター,所蔵地図データベース (参照 2024-02-11)

写真:

東京交通社 編『大日本職業別明細図』,東京交通社,昭12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/8311839/1/841(参照 2024-02-12)

その他:

静岡市企画部文書課 編『藤波甚助日誌抄録』,静岡市,1963. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/2996140/1/51 及び https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/2996140/1/53 (参照 2024-02-12)

安本博 編『静岡中心街誌』本編,静岡中心街誌編集委員会,1974. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9536561 (参照 2024-02-12)

 『蓄音器世界 = The phonograph world』4(3)より「浪界の大彗星桃中軒雲右衛門 天民生」,蓄音器世界社,1917-03. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1497995 (参照 2024-02-12)

※自由研究参照先に国立国会図書館デジタルコレクションを掲載しております
 ログインが必要な場合がございますことをご了承ください

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林家彦いち『楽写』楽屋語録と『楽屋顔』 寄席の見えないルーティン

先日 林家彦いち師匠の『楽屋顔』を改めて手にして
感触を確かめたくて元になった単行本『楽写』入手。

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楽写

楽写  文・写真 林家彦いち(小学館)

 

写真は映した紙の手触りや大きさで印象が変わる。

画像も何で見るかによって印象が変わるけれど
紙を再現することは難しい。

 

単行本は最初に手にした文庫本の手触りとまた違う。
写真の大きさと艶で変わる表情。

 

正楽師匠の楽屋で紙切りをする写真に
紙といえば私も信頼が高い
銀座 伊東屋の袋が写っていたことに気がついた。

 

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両方揃ったことで見比べてみると
文庫にないもの、文庫にしかないものに気づく。

 

ひとつは単行本の冒頭にある「楽屋語録」
彦いち師匠が先輩方から受けたお言葉15片。

 

「人生で大事なことはすべて楽屋で学んだ」

 

なんて大それた副題に続く楽屋語録は愛しき演芸の超訳で楽しい。

 

ヨイショの志ん駒師匠のは声を出して笑った。

♪ご祝儀は~歩いてこない、だからもらいに行くんだよ~

古今亭志ん駒

たしかにご祝儀も幸せも歩いてこない。

 

文庫にしかないのは
書き下ろしの「そして今日の彦いちは」

 

四代目桂三木助師匠宅の話「わすれられない穴」と
主任となり先輩から挨拶をされる立場になり
林家正雀師匠をしくじった怪談噺を思い出す「みえないルーティン」

 

『楽屋顔』は主に写真を楽しむ本となっていたので
一度読んだはずの内容もずいぶん忘れていた。
今だから沁みることがいくつもあった。

 

先代桂三木助師匠が亡くなった年は
私も初めて家族を亡くした年だと気づいた。

弔いって家族だけではどうにもならなくて
近い人達に手伝ってもらうもので
相談したい肝心な人が棺桶に入ってたりして困ったものだ。

今だからそう思える話。後日墓石にぼやいた話。
突然頼れる大黒柱を失った娘だった気持ちも思い出した。

 

彦いち師匠が初めて浅草の定席主任を勤めた楽日
正雀師匠がしてくれた主任を労う挨拶に
数百年続く寄席の見えないルーティンを感じた、という一文

脈々と続く寄席のルーティン
寄席の数や場所や時代が変わっても
続いていることにはごく当たり前のことが基本にあるのかなと思った。

たとえば挨拶も、労いも、
始まったら終わることも
入ってきたら仲間でやっていくことも
先輩後輩があっても今日の座頭にはきちんとするとか
大袈裟に言わない信用とか愛情とか。

ちょっとおセンチなことを書いた気もするけれど
演芸でも生活でも伝統にも最先端にも
積み上げていく日常はあってスピードや波や形が違うだけ
繰り返しの芯に戻れる基本があるのは強いと思った。

怪談噺が出てくる正雀師匠とのエピソードだったこともあって
100年以上続いたことはすぐに想像がついたからだ。

去年少し時間を使えて三遊亭圓朝の後年を追う自由研究の中で
怪談噺が圓朝から三遊一朝と繋がり
一朝から林家彦六(八代目林家正蔵
そして彦六師匠から正雀師匠に受け継がれた。

前座時代の彦いち師匠や白酒師匠の幽霊や声の役回りも
怪談噺という芸の中で受け継がれてきたもの。

いつだったか鏑木清方圓朝像や幽霊画と一緒に
昔怪談噺で使われた幽霊の被り物を見たことがあった。
彦いち師匠のようにしくじった前座もあっただろうし
謝って許されてがあっただろうし
そこから工夫して「不動坊」に出てくる幽霊がウリの噺家もいたかもしれない。


人物で知って現役の噺家まで繋がると真実味が格段に変わる。
昔々の本を手繰って面白くて調べるうちに
現代の噺家につながるのは楽しい。

彦いち師匠の『楽写』も『楽屋顔』も
今楽しい読み物でもあるけれど
噺家のルーティンを記録した時代資料のひとつとなっていく。

 

今更だが『楽写』が出版されたのが2004年11月
『楽屋顔』は2011年12月
楽写の写真たちは1997年(文庫版は1990年)~2004年までのものとある。
写真はもう20年前なのか。現代とはいつからか。

 

おまけ

f:id:entsunagi705:20240209233517j:image サライ』は推しの兼好師匠が載ってるのです

書いている途中で手にした『東京人』

落語協会創立100年特集に彦いち師匠の楽屋話の続きも
正雀師匠が彦六師匠から受け継いだ品も載っていた。

自由研究とあれこれ書き散らした話と繋がる読み物も多数。

五代目左楽師匠と橘右近先生の繋がりや
寄席文字橘流の成り立ちについても知らなかったこともあった。

今回の数え方でも左楽師匠は創立時の会長ではあったようだ(笑)

落語協会を創立した時代から100年
変わったもの、変えないもので落語の秘密が見えるかもしれない。

 

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現存最古のコミカル志ん生

以前みつけた落語好きのご主人が営むカフェに再び伺った。

 

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今回は他にもお客さんがいたので
先月行けなかった落語会の話を少しだけしてお暇することに。

 

お会計をして、前回聞けなかった書籍の名前だけ聞いて
さて帰ろうとしたところ
ご主人が突如「これわかるかなあ・・・」となにやらゴソゴソ。

趣味コーナーにあるモニターをつけてしばらくすると
昔の映像が流れ始めた。

なにやら見たことがある女優さん。有名なのに名前が思い出せない。
次はわかる。朝ドラ「ブギウギ」のヒロインモデル、笠置シズ子さんだ。

そして次。知っているイメージより線が細いけれど
間違いなく古今亭志ん生師匠!

これまで見たことがあるものは
ご家族との映像や高座映像。
これがすぐに映画だとはわからなかった。

 

ご主人が見せてくれたのは 映画「銀座カンカン娘」のワンシーン。

聞けばで志ん生師匠は元落語家の役だという。
「替り目」のような展開が入っていて、
その後の一家(一門?)が集まっていたシーンだったらしい。

後から調べると1949年(昭和24年)の映画で
名前が思い出せなかったのは高峰秀子さんだった。
志ん生師匠の役名は「新笑」でそのまま「しんしょう」。

 

前回と違って落語の話をさほどしなかった分
ご主人どうしても見せたかった模様。
お騒がせしたけれどこういうご厚意はありがたい。

 

歌同様に大ヒットした映画作品だそう。
見せてもらったシーンはなかったが、プロモーション映像を見つけた。

銀座カンカン娘PV - YouTube

youtu.be

 

志ん生の落語シーンは

” 現存する映像では最古と言われている ”

とキャプションに書かれている。

 

プロモーション映像は歌うシーン多めだが
わずかに登場する志ん生師匠の疝気の虫稽古?シーンの後半
ドリフのコントセットみたいに壊れて
志ん生師匠がどっちらけポーズになるのが楽しい。
(時代的にニュアンスが伝わらないかもしれないけど)

ドリフより先かもしれない。

 

ドリフといえば以前見た映画「春だドリフだ全員集合!!(1971)」で
圓生師匠が長さんの師匠になって稽古つけたり、
小さん師匠も一緒に真打昇進させる会合シーンがあったのも笑ったが
昭和の名人はそれぐらいはやってくれていたらしい。
今時の名人の芸の定義も適当なのかもしれない。

 

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落語お好きなご主人が営む「くつろぎCafeやまぼうし」
https://yamaboushi.shopinfo.jp/

三遊亭好一郎師匠の次の落語会は4月にまた予定されているとのこと。
懇親会もあるそうなので詳細情報を仕入れたいと思います。

 

おまけ

前回失念して宿題だった色紙「道具屋」は
三省堂『落語百選』の挿絵の一枚とのことでした。

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楽屋顔の正楽師匠

なぜか定期的に見る過去の深夜枠落語番組「落語者

 

まだ生の落語を追いかける前に放送されていた番組ですが
今でも人気の師匠達の落語とトークがあって何度見ても楽しめます。

 

林家彦いち師匠の回を見ると毎度手にするのが『楽屋顔』

師匠が楽屋で撮った噺家達を2004年に単行本『楽写』を
文庫本『楽屋顔』に収めて発売したとトークで話題になるから。

 

「正楽師匠の顔もあったはず」

 

今回は『楽屋顔』と耳にして真っ先に正楽師匠を探した。

 

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すぐに見つかった。

一枚は高座ではない「丹念に時間をかけて作る場合」の紙切り
色紙のものがある。この間長井さんの記事で読んだシリーズかもしれない。
正楽師匠は高座と違う真剣な表情だ。

 

[演芸おもしろ帖]巻の三十九 正楽は寄席にいる! 追悼「紙切り名人」林家正楽の高座スケッチ : 読売新聞

www.yomiuri.co.jp

 

もう一枚は2000年の襲名披露でトリを取っていた時のもの。
こちらも高座と違う鋭い眼差し。
時間を確認する様子が前のものとは違った主任のまなざしに見える。

どちらも笑顔ではなかったのが意外だった。

 

 

この本は入手した時から楽しんできた一冊。

今活躍する師匠方のかなり若い姿を楽しみに拝見しているのだけれど
手にする度にこの方もこの方も鬼籍に入られたと確認することになる。

そしてなぜか寄席や落語会で見る機会が無かった師匠方の顔も
前に手にした時よりわかるようになるのが不思議だ。

 

不思議といっても理由は思い当たる。SNSだ。

コロナ禍以前は演芸情報が少なかったとはいえ
限られていたからこそ今よりむしろ情報が拾いやすい一面があった旧Twitter

訃報は特に演芸に限らず目にするのが早く、特に知った落語家さんが発信すると
身近な関係が伝わってきた。

訃報をきっかけに調べたのを明確に覚えているのが志ん駒師匠だった。
生で見たことがない人なのに慕う人達の言葉で関心を持った。
調べたし音源も聴いてみた。ラジオで放送されたものも聴いた。
師弟関係わかり、芸風を知り、子供の頃テレビで見ていた人だといきついた。

そうしてお名前や顔を改めて覚えたり
高座を聴いて声を覚えた方も知らぬ間に増えていたらしい。

もちろん僅かでも寄席や落語会で見た人ならまた感じ方が変わり
手元にある落語本や何気なく見ていた高座写真が違って見えてくる。

 

正楽師匠は作品が形に残る芸の師匠らしく
これまで客席に渡ったたくさんの作品と笑顔とお茶目な写真が花道のように続いた。

 

トリを食わないことが役割でありながら
襲名披露では主任を勤め慕われ
次の人間国宝に違いないと言われつつ花道入りとは
そのうち歌舞伎で一幕見て大向こうをかけてみたい格好良さだ。

 

彦いち師匠の仲間目線で見ることができる『楽屋顔』

楽屋の様子は今や画像や映像で見る機会も増えたけれど、
ネットで作品や追悼記事もたくさん読んだけれど
紙に写した正楽師匠の日常も真剣も自然体の顔を
手に持って見ることができたのがなんだかほっとした。

単行本の『楽写』もまた少し違った感慨の深さを味わえそうに思える。

楽屋顔-噺家・彦いちが撮った、高座の裏側- (講談社+α文庫)

楽屋顔-噺家・彦いちが撮った、高座の裏側- (講談社+α文庫)

楽写

楽写  文・写真 林家彦いち(小学館)

 

100年前に落語協会設立した 五代目 柳亭左楽師匠に興味を持つ

落語協会誕生100年までまもなく。

残念ながら裁判に発展してしまったトラブルを見て
このタイミングで分裂するような動きがを心配していたのだけれど
実はこういうことが落語の世界では初めてではないことは知っている。

 

100年前、東京の落語界にはいくつか団体があった。
東京寄席演芸株式会社と落語睦会が二大団体で他にもあり
寄席の数も今の数十倍あったらしい。

1923(大正12)年9月1日に関東大震災が起きて、その環境が一変した。
被災で食べる物着る物にも困る状況に、東京落語界が団結して出来たのが
落語協会

 

誕生百年の落語協会
この設立に奔走し会長となったのが五代目 柳亭左楽師匠。

この師匠は落語の本を読むとよく出てくるし、
「五代目」といったら左楽師匠の事だという。

けれど設立翌年6月には分裂騒動で脱退してしまう左楽師匠。

落語協会が誕生100年としている日を基準にすると所属期間入っているのかわかりません)

年表だけ見ると勝手でいい加減な芸人に見えてしまいそうだけれど
師匠を知る人達の証言を読むと正目の通った人柄が職人か親分肌に思える。

少し調べただけで日清戦争にも日露戦争にも従軍しているし、
東京寄席演芸株式会社を抜けて落語睦会の立ち上げにも関わって
震災後に落語協会を設立して会長になって脱退して
睦会の会長となり、睦会解散後は日本芸術協会(現在の落語芸術協会)に。

 

書き連ねると移籍が激しい人の様だけれど
後進を育てる力もあり、所属に関わらず人を助けるところがあり
葬列の様子は信じられない程の規模となったそうだ。

エピソードはまだまだある左楽師匠。
唯一非難されたのを目にした話は八代目桂文楽の襲名のことぐらい。

 

落語界の団体も変遷がある。
時代の理由や方針の違いで100年以上前から歴史がある。

その中でも複数の団体を設立する側にもなり脱退もしていたのだから
探せば他にも良い方でない話もあるのだろうが、
東京の落語界全体を見ていたのではないかと思うと
明治から昭和を生き抜いてきた左楽師匠を見てみたかった。

個性にあふれた芸人をまとめるのはさぞや大変かと思うけれど
想像でしかないし、当時と現代では状況が違い過ぎて比べられない。


左楽師匠を知ると「政治力」という言葉にぶつかる。
落語の世界の政治とはどんなことだろう。

少なくともそれがなかったら今の演芸にあるファンサービスも
演芸の発言力や発信力も持てなかったのかもしれないとは思う。

政治力というと今は悪いイメージしかないけれど
人や芸や噺すことの魅力が根本がなく持てるものではないと信じたい。
支持される人という意味では芸とは別の惹きつける力でもある。
結果どの世界より生身の人間力になるのかもしれない。

 

上野動物園の裏手に千本の花環
上野広小路、鈴本を通り上野駅前から稲荷町の明順寺まで
芸人が輿を担ぎ木遣りと後に後に続く葬列

 

どんな仕事をしたらそんな葬列が成されるのか
僅かに読んだだけでも知りたくなる。

落語協会を設立してすぐ抜けた理由も多少知りたい。
筋が通らないことがあったのだろうか。
出来ればあまり正論ではないものだとありがたい。
格好いいだけに完璧ではない所も知りたい。

 

いくら読んでも真実はわからないけれど

「片棒」の一幕みたいな葬列がそう思わせる。

 

参考

聞書き・寄席末広亭―席主北村銀太郎述 (平凡社ライブラリー)

新書第4弾『東都噺家百傑伝 冥土インジャパンの巻』保田武宏・著

協会概要 | 一般社団法人 落語協会

柳亭左楽 - Wikipedia

落語協会 - Wikipedia

推し活カレンダー更新&つれづれ

2月になりました。
兼好師匠の公認サイトのスケジュールも更新されておりました。

落語界の革命児、偉大なる噺家・三遊亭兼好を応援する人々

 

推し活カレンダー(非公認)も随時更新しております。
ブログに書くときに表記が定まらなくてすみません。

三遊亭兼好師匠ファンサイト

sites.google.com

落語会が増えたからなのか、お値段なのか、
情報解禁のタイミングなのか
コロナ禍を経て宣伝方法が変わって来たからなのかわかりませんが
毎年人気だった会も流れが少し変わった印象があります。

最近兼好師匠を聴きたくなられた方、チャンスかもしれません。

楽しそうなのにチケットがある会は早めに席を押さえて
ぜひ一度足を運んでみてください。

 

個人的におすすめなのは、細かい仕草まで見える前方の席。
後ろがお好みの方もいらっしゃるかと思いますが
落語は表情やしぐさの見え方の違いは体験していただきたい話芸です。

先月から横浜にぎわい座の会を推しております。
2月14日(水)は19時から楽しみにしている 桂かい枝師匠と兼好師匠の二人会があります。

 

定席の寄席で兼好師匠を見る機会は多くありませんので
寄席に行かれる方は新宿末広亭の予定をチェックなさってください。
交互出演がほとんどなので偶然の出会いも楽しいことでしょう。

両国寄席や亀戸梅屋敷寄席へ行かれる方は
圓楽一門会の雰囲気も一緒に楽しめますよ。

 

4月に日本橋公会堂のTBS落語研究会出演があるようです。
国立劇場から移った会ですが、日本橋公会堂も改修工事が予定されているので
貴重なタイミングかもしれません。
年席制から都度申込に代わっているので、更新情報をチェックしてみてはいかがでしょうか。

ただ、テレビ収録が前提の会ですので昨今話題の携帯電話の音などは
参加される際 特にご注意ください。

日程は仮設定していますが、カレンダーへの更新は詳細を確認して行う予定です。

www.tbs.co.jp

5月3日にはプチ人形町落語祭。2月1日発売でしたが、今まだチケットがあるならチャンスです。

 

ファンサイトに集めている画像も
断然ネット上に発信された演題や高座写真、楽屋の様子が増えました。

兼好師匠の後輩世代がネット上にたくさん発信しているので
ネットに出る情報がすべてのように錯覚しますが、
いまだに落語会でチラシを手にするとウキウキします。
行きたい会も、行かない会も関係なく手に取れるのが楽しく
そのチラシの情報がネット上で見つからなくてもったいなく
カレンダー作りをした初心に戻れます。

今でも意外と文化会館などの公共施設の落語会を見つけるのは難しくて
そんなに宣伝の必要性がないのかもしれないのですが
詳細が確認できない落語会があると

 

全国に落語ができる会場って鬼ほどある・・・!!

と思います。

(実はクローズな会という情報が漏れ出ているようなのですが)

 

落語会によってネット上に情報が出たり出なかったりしますが
今の形が当たり前になる前からチラシを眺めてきたので
出しても出さなくてもそれが会を運営される方の特徴だとわかる
「気遣いが感じられる」落語会は雰囲気を知ってほしいと思います。

ある種思い込みや勘違いもあるのでしょうが
チラシをもらったり情報を集めていると
主催の考えや空気感を生で体験していたり
行ったことがない会だけどいつか行きたいと思えたりする会もありますしね。

 

落語に関わることもそうでないこともいろいろ起こった1月でしたが
節分を迎えて流れが変わることを願います。