直子の部屋

笑ったり泣いたり踊ったり暴れたり推し事したり。

100年前に落語協会設立した 五代目 柳亭左楽師匠に興味を持つ

落語協会誕生100年までまもなく。

残念ながら裁判に発展してしまったトラブルを見て
このタイミングで分裂するような動きがを心配していたのだけれど
実はこういうことが落語の世界では初めてではないことは知っている。

 

100年前、東京の落語界にはいくつか団体があった。
東京寄席演芸株式会社と落語睦会が二大団体で他にもあり
寄席の数も今の数十倍あったらしい。

1923(大正12)年9月1日に関東大震災が起きて、その環境が一変した。
被災で食べる物着る物にも困る状況に、東京落語界が団結して出来たのが
落語協会

 

誕生百年の落語協会
この設立に奔走し会長となったのが五代目 柳亭左楽師匠。

この師匠は落語の本を読むとよく出てくるし、
「五代目」といったら左楽師匠の事だという。

けれど設立翌年6月には分裂騒動で脱退してしまう左楽師匠。

落語協会が誕生100年としている日を基準にすると所属期間入っているのかわかりません)

年表だけ見ると勝手でいい加減な芸人に見えてしまいそうだけれど
師匠を知る人達の証言を読むと正目の通った人柄が職人か親分肌に思える。

少し調べただけで日清戦争にも日露戦争にも従軍しているし、
東京寄席演芸株式会社を抜けて落語睦会の立ち上げにも関わって
震災後に落語協会を設立して会長になって脱退して
睦会の会長となり、睦会解散後は日本芸術協会(現在の落語芸術協会)に。

 

書き連ねると移籍が激しい人の様だけれど
後進を育てる力もあり、所属に関わらず人を助けるところがあり
葬列の様子は信じられない程の規模となったそうだ。

エピソードはまだまだある左楽師匠。
唯一非難されたのを目にした話は八代目桂文楽の襲名のことぐらい。

 

落語界の団体も変遷がある。
時代の理由や方針の違いで100年以上前から歴史がある。

その中でも複数の団体を設立する側にもなり脱退もしていたのだから
探せば他にも良い方でない話もあるのだろうが、
東京の落語界全体を見ていたのではないかと思うと
明治から昭和を生き抜いてきた左楽師匠を見てみたかった。

個性にあふれた芸人をまとめるのはさぞや大変かと思うけれど
想像でしかないし、当時と現代では状況が違い過ぎて比べられない。


左楽師匠を知ると「政治力」という言葉にぶつかる。
落語の世界の政治とはどんなことだろう。

少なくともそれがなかったら今の演芸にあるファンサービスも
演芸の発言力や発信力も持てなかったのかもしれないとは思う。

政治力というと今は悪いイメージしかないけれど
人や芸や噺すことの魅力が根本がなく持てるものではないと信じたい。
支持される人という意味では芸とは別の惹きつける力でもある。
結果どの世界より生身の人間力になるのかもしれない。

 

上野動物園の裏手に千本の花環
上野広小路、鈴本を通り上野駅前から稲荷町の明順寺まで
芸人が輿を担ぎ木遣りと後に後に続く葬列

 

どんな仕事をしたらそんな葬列が成されるのか
僅かに読んだだけでも知りたくなる。

落語協会を設立してすぐ抜けた理由も多少知りたい。
筋が通らないことがあったのだろうか。
出来ればあまり正論ではないものだとありがたい。
格好いいだけに完璧ではない所も知りたい。

 

いくら読んでも真実はわからないけれど

「片棒」の一幕みたいな葬列がそう思わせる。

 

参考

聞書き・寄席末広亭―席主北村銀太郎述 (平凡社ライブラリー)

新書第4弾『東都噺家百傑伝 冥土インジャパンの巻』保田武宏・著

協会概要 | 一般社団法人 落語協会

柳亭左楽 - Wikipedia

落語協会 - Wikipedia