直子の部屋

笑ったり泣いたり踊ったり暴れたり推し事したり。

昨日の出来事 B面雑感

昨日は正楽師匠の訃報に心揺れた。

SNSのタイムラインに演者さんからもお客さんからも流れる
それぞれの師匠との思い出と作品をずっと見てしまった。
形に残る芸はこういう形で寄席以外で目にできるんだなと実感した。

太神楽の鏡味仙三郎先生、寄席文字の橘左近さんに続いて
紙切り林家正楽師匠が旅立ってしまって
噺家だけでない寄席演芸を支え歴史を知る先人の
生の姿や仕事を知らぬ間に目にしてきたことを改めて思い知る。

 

同じ日に目にしたニュースは
気になることはいくつもあった

訃報への想いが勝っていたので流せると思ったのだけれど
今日になってやっぱり複雑に思うことがありすぎて
まずは手で書き出してみる。

 

そのままブログには書けない(笑)

書けなくはないが、まとまりもなく。

昨日のB面雑感として思うことを。

 

年始から様々思うこともあり
SNSで辛い情報を見過ぎないよう気を付けているので
演芸界隈の話も落語家さんの発信だから見ようということがなくなった。

それでも反応してしまうことは気になっていることなので
心理的に距離を取りながら見ている。

 

・ハラスメントの裁判で弟子が勝訴

・漫画原作のドラマ化のトラブル

・公演中に携帯が鳴った件

 

昨日頭で混ざってしまったニュースはこんなところか。

まとまらないのでとりとめなく書くけれど、お許しを。

 

気になった件の共通項は

 

人の口には戸は建てられぬ

口は災い

ネット上で文字言葉の論争に嫌気がさしてる

 

すべて言葉では足りないから起こってる

 

むしろ言葉で分断が生まれ続ける

芸ではない感情論で更に波紋が広がる

 

親子の事なんて
直接対峙してもわかり合えない
理解するのに長い時間がかかる
そんなものなのに
他の親子はもっとひどいことやってるなんて
それはその他人の親子は求めているのだろうか

残念ながら協会と云う団体は協会であって
親子の紛争解決目的の組織ではないと思う
全て立件していくのだろうか

直接が怖いなら
落語の世界のように
ご近所長屋の人に間に入ってもらうことはできなかったのだろうか
やったけど無理だったのかもしれないけど

奉行所に訴えて粋な解決をしてくれる現実はないとおもうなあ

親子は親の心子知らず 子の心親知らず

裁判を挟むことで恨み合って生涯を終えてしまうかもしれないのが
見ていられない理由かもしれない。

口が立つ人は
口では勝てないから手が出る人の原理は理解できないのだろう
口で相手を不快にさせているということとか
私も気づくまでずいぶんずいぶんかかった

言葉を仕事にしている人の中に
吃音や言葉が苦手だからこそ飛び込んだ人がいたり
高座と真逆の態度になる人がいるのは
繰り返し稽古をして披露する場が必要だからだ

感情的な言動が上手くいかない苦しみがある人かもしれないと
本当にひどい相手に思えたら(距離をまず取れだけど)

偶然間があってしまった正楽師匠のことを寄席のルールブックと書いている人がいて
どう見ていたのだろうかと思ってしまった。
思ってしまっただけ。

 

うっかり某師匠が吐露していた言葉に反論が見受けられたが
同じ様な意見はネットを使わない人からは結構聞くし
そういうものだと思う

要は嫌なら離れたらよかったのではということで
裁判にして善悪を問う執着に怒り心頭ということだと思う

個人的にはどちらにもつかない、つきたくないが
酒の席で中立さえ許されずに酔っ払いに絡まれたのを思い出した。

あちこちで無用な分断を生んで欲しくない。

 

この裁判の後、彼の元に集まるお客さんが求めるものは笑いなのだろうか。
ハラスメント事項が絡む落語が出来なくなってしまうのではないか。
余計な心配ばかりが浮かぶ。
私にはできない長い戦いだと思う。

 

漫画原作のドラマの件はちょっと関心があっただけなので
斜めよみの感想でしかない。
途中だけドラマを見ていて面白かったし
先日武道館で披露目をした師匠が出ていたから、ぐらいで
原作を読んでいない視聴者だ。

 

そもそも漫画をドラマ化する時に
原作に忠実に映像にすることが可能だと考えていることに驚いた。

ご本人の認識がどうというわけではなく
脚本家の言い分がどうとかではなく
間に入った人間もどうかとおもうけれど
テレビへの認識や映像業界への認識がずれているし
制作に他人が関わっている限り
自分が思う通りになると考えるのが幻想かなと思う。

思い通りにしても
テレビでドラマを見る視聴者に意図が正しく伝わるか問題もある。

際限なく悩みが増えていく。

思いがけない影響力が生まれるのがテレビの世界
だから近頃さらにトラブルが表面化するのだろうが
自分で生み出せないものが生まれるのが人に任せる世界だ

とはいえ、作った方のやり方も強引だったのだろう

 

「問わず語りの神田伯山」で連続読みの最終日に携帯が鳴った経緯を聞いた。

その後歌舞伎の荒川十太夫で10分も鳴り続けたアラームの話は
他の演目ではなく伯山に関わる演目で起こったことが
こういっては悪いが縁があって面白い。
収録が前提の落語研究会でも鳴ったとか。
笑点の前説が徹底的に楽しませながら注意喚起していたので
今はあれが正解なのかな。

萬橘師匠の立ち去る客はもはや客側で面白がって立つ人間がいるのではないかと思うけれど、携帯を鳴らす人が愉快犯かもしれないと思うことはある。

 

私自身慌て者の粗忽なので話しに夢中で切り忘れて
高座の途中でドギマギしたことがあり
開演前ルーティーンを決めているけれど
緞帳が上がるまで、上がってもしばらくスマホを光らせている人は結構多い。
客席が舞台に集中している場面を
開演の時に想像できない人は多い。

遅れて慌てて客席に入る人も
携帯どころか上着も脱がずに薄暗い場に入ってから
ガサガサ音を立てて身支度をする人も多い。

 

公演を楽しむのを目的に来ていると思い込んでいるけれど
数百人数千人が一致団結するのは奇跡だと思う。

全国的な露出がある人を一度見に行こうとか
招待券があったから行ってみよう
誘われたから試しに行ってみよう
家に居られないから時間をつぶそう

そういう人ほどガヤガヤしている開場中の注意事項なんてスルーすると思いませんか。


大人同士なんだから、開演前にしつこく確認して変な空気にしてもね、とか
多分隣の人だと思っても、ここまで鳴ってれば切るだろうとか
もし間違ったり怒らせたりしたらと
注意してトラブルになるのを避けて押し黙って待つのは
人のすることとしてごく自然なのです。


もはや観劇は習慣というひとは
だからこそ、今時からズレて自己流ルールの人も多い。
自分が歳を重ねて緩んでいることに自覚がないこともある。
(逆に厳しくなりすぎるもあるだろう)

今時過ぎて考えられない自宅のソファで配信見てるような人もいる。
アウェーの場所だからルールを確認しようなんて
Z世代だろうが後期高齢者だろうが真面目にやる人の方が少ないと思った方が良いのでないだろうか。

 

携帯鳴る問題は古典芸能以外にはないのだろうか?
調べはしないけれど可能性としては

アクセルとブレーキ間違えたとか
高速逆走とか中央分離帯乗り越えてきたとか
高齢化や病気に纏わる問題に近いのか知りたい
そのレベルならもはや天災で本人さえ止めようがない可能性もある。
(許せるという意味ではない)

 

どうにしろ
人を思うように動かそうとするのには限界があって
技術を進化させても多分
何も考えない人がフラッと技術を越えて迷惑をかけてくるし

大らかな雰囲気を重視しようとするか
きっちりとルールを決めて運用するかの二択が出来ると思っているなら
それは大きな間違いだと思う。

 

実際お金払って出かけた先で
楽しませてもらえなかった時は怒り心頭だ。

他人のpostを見て苛立つのは
自分の良い思い出を壊されたり嫌な経験が重なるからだ。

矛盾が集まっている中で一体感が終演まで続く喜びはひとしお。
生の場に居合わせてよかったと思えること経験は
そこにいる人達全員の心意気で出来ている。

 

その心意気を信じてまた足を運ぶ
そこに集まる人達全員格好いいと思えることもあって欲しい。

 

不慣れで鳴らしてしまった、ということまで咎めたいわけではないけれど
せめて笑わせてほしい。

少し前に「いつかやってしまうかもしれない妄想」をしてみたけれど

どうせ雰囲気がぶち壊されている状態なら
伯山先生の対応はこちらは残念だけど機転が安心するなと思う。


客席で「出てけよ!」と責め叫ぶより


「誰か知らないけど鳴ってるよー!」

「結構近いよ!」

 

とか言ってみたい。ケロケロ声とかで。

ドッと笑いが起きるかな?

隣りなら「鳴ってません?」といえる勇気は持ちたい。