直子の部屋

笑ったり泣いたり踊ったり暴れたり推し事したり。

人情と笑いの交差点、落語への招待(AIアシストタイトル採用)

 

 

 


誰しも縁がある人を悪く言われたら、感情的に反応してしまうものだ。
事情も知らない人間が何を言っているんだ、と。

逆に発言した人にはそんなの関係ない。
嫌な気分にさせられた被害者だと感じているからだ。

期待して出かけた落語会で楽しめない。
思っていたのと違った。
初めてだろうがここは一期一会の場所だ。プロとしてどうなの。

出来がひどいと感じたらそれがその人の感情。
誰にも否定できない。

 

反応した私が置いたpostに

「ひどいなぁ」と「衰えたなぁ」は決定的に違う、というご意見。


それもその通りだと思う。


でも。

 

衰えたことがわかるのは、
衰える前を知っている人にしかわからない。

 


最初の高座がひでえなあと思ったとしても
その成長や熟成の時間を一緒に過ごしたり
いろんな音源を聴きこんだりするうちに変わっていく

いつのまにか重ねたつきあい
経験を合わせた感想だと思う。


どんなに勉強されていて、キャリアがあって、実力もあって、なんでもできる師匠だろうと。その日の高座を初めて聴く人、演芸に慣れない人、仕事で疲れている人、勢いのある今時の芸が楽しいという人に、全て受け入れられるかといえばそんなことはない。
だから芸なのだ。現役が続く限り、完璧がない、と言わしめる理由。


客の主観で考えれば、悪いのはプロなのに自分を唸らせてくれなかった高座の上の人、落語会として見れば顔付けした主催者のセンスを疑ったりすることもあるかもしれない。
そういう時は自分のコンディションを計算に入れない(段階だ)から勝手なことをいう。これこそ感情が起こっている状況。理性が追いつかない。
人の業で、あって当たり前。
落語の中によく出てくる情と同じで、SNSにつぶやいてしまうもの。


誰かの言葉に感情に反発したり叩いたり。
今は生身ではなかなか出来なくてSNSで展開される。
言葉で勝てないと手が出るような時代から続く
とても人間らしい争い。そのうち戦争になる火種だ。


それを見て何か思う。嫌だなとか。なんでとか。面白えなとか。
その時の自分は、往来の喧嘩を見る野次馬状態。
当人じゃないのに自分の気分が悪くなるとか、もっとやれと囃し立てるとか。

それをSNSでつぶやいてしまった野次馬postが上の言葉です。

 

聴いた時感情は率直なもの。
なのにある日、その一度ですごく嫌いになった師匠が、別の高座ですごいことやったりするわけです。
気になった口癖さえ味わいだったと知ったりして。
年取ってくってこういうことか、とか。
高座と客席の感情は干満の潮目のようなもの。
気付いた瞬間から聴く方が歩み寄って耳そばだてるようになる。

 

これも人の自然な感情の形というか。
そして落語の面白いところ。


落語を聴くことに時間を費やしていくと
こちらも一緒に年をとっていき
わからなかったことが段々とわかってきたりする。

大事な人と別れたり
いっときの感情で何かを失ったり
こだわっていたことも許せたり
気にもしなかった他人を思い遣ったり
老いの先を考えたり。

 

人とのやりとりで起こる情は人情も激情もまぜこぜで
その場では処理が追いつかないことはよくある。

 

普段の自分事では悲しくて悔しくて腹が立つことも
高座の他人から聴く落語として情を愛情として捉えなおせる。

 

もちろん、嫌なものは嫌だった、もある。よくある。
それこそ好みなわけで。
それこそ他人が口をはさむ領域ではない。

 

自分の好みとわかれば、他人に広くいう必要も減るでしょ。
SNSで感情を吐き出して暴れる必要も減る。
嫌なものも言いたいだけ話せる、
親身な相手と笑い話すれば済むようになる。

 

今はそれも少なくて孤独を感じる人も増えているらしい。
そういう人ほど落語を聞きに出かけてみてほしい。

思いがけないところで感情が暴れているのに気づくから。
周りを思い遣って、
自分をずっと我慢させてしまっていることさえ忘れていたことに。

 

その感情を、誰かの落語や見知らぬお客さんとの一体感が
笑いに昇華させてくれるのかもしれません。

だから落語は、演技が上手いだけではつまらないのかもしれないなあ。

 

余談

今回もAIタイトルアシストくんにタイトルを任せてみました。

修正なし。学習してくれたのか、自分が寄せたのか
笑える上になかなかいい感じです。
若干変なのが逆に楽しい。

何を学習してくれているのか知らないでテキトーにやっているけれど
自分のクセを学習して提案してくれるなら
そのうちナイトライダーになってくれるかもしれない期待。
ナイトライダー世代です)