直子の部屋

笑ったり泣いたり踊ったり暴れたり推し事したり。

人の役に立つって難しい

「人の役に立つって難しい」

 

好きだった仕事で追い込まれて、うつの診断を受けた。

治してはまた、もう戻らないと決めてもまた。

なんど陥れば気が済むねん!と己で突っ込んでいる。

 

働けなくなった時には、人生詰んだ・・・と思った。

ただ、とっくの昔に希死念慮は体が全拒否してたので詰まないのだけれど。
(つくづく頭と体の成長が伴ってくれていて助かった)

情けなくても泥臭くでも生きるしかない。生きながら死んで生まれ変わっていくしかない。その感覚を得たのは病気のおかげだ。

 

それでもなかなか学習できない。

なにしろ「好きなことを一所懸命にする」と起こるからだ。

この表現は自分以外の人の当てはまるかわからない。

けれど、経験からいえる一番適当な表現だと思う。

 

ある時期から「好きなことを一所懸命にする」時に「加減する」ことにした。

少し学習して出来た予防策。

一所懸命で心身に変調が起こる流れは経験済み。一線を超える前に対処する。

 

けれど好きなことだから難しい。真面目に考えるほど墓穴を掘る。

もしかしたら加減ができない仕様なのかもしれない。加減のボリューム付いてない気がしてきた。。。

頑固なところもある。周りに助けを求めない傾向もある。

年を経て柔軟になったことと、より強固になりつつあるところもあるように思う。

仕事の場合は特に、気づいても周りの状況を優先してしまう可能性大。

なのに人が足りない業種に行きがち。ハマりに行っているようなものだな。

考えてみれば、求人を見て応募するのだから当然といえば当然か。

 

 

ずっと課題だ。学ばない失敗は毎回同じ。

周りを優先し過ぎること。自分を優先できなくなること。

好きなこともしんどいことも同じ。

他人に理解してもらえそうにないと思うほど自分が面白いと思うこともあるのに、どこか自分が希薄になることも多い。人だけでなく環境の影響も受けやすい。

これは親譲りもあると思う。

「人の役に立つって難しい」と強く強く思ったのが、母ががんで入院した時だった。

 

背中が痛いと言っていた母が救急搬送されて入院した。

痛みは腫瘍で、精度の高いレントゲンでないとはっきりわからないものだったらしい。

商売をしていて、出かける先々で世話を焼く人だったけれど、強く口止めされた。

毎日のように出歩いて他人の世話を焼いていた分、どうしているのか聞かれる。

ごまかしきれなくなると連日見舞いだと人がやってくる。気遣って来ないようにしてくれる人もいたが、強引にやってきて長時間ベッドの脇につく連中もいた。

人がやりたがらない役を引き受ける母は、他にできる人がいないと、ベッドの上でもその役を続けされる羽目になりかけていた。信じられないと抗議した。その後も勝手にまもなく元気になると触れて回っていたそうだ。余命について医師から話を受けていたころだった。母が長く携わっていた団体だった。恩を仇で返されたとしか思えなかった。

母が亡くなるとは思っていなかったのだろう。「よかれとおもって」人は余計なことをするのだろうと思うようにした。当時はそう思うほかに心の安定は図れなかった。母は世話を焼きたくて焼く人だ。その母に、ブレーキをかけようと体は背中の痛みでサインを出した。ベッドの上で、情で離れることを踏み切れないで悩んでいた母を思い出す。

 

両親ともに人の世話をする人達だった私は、それが大人というものだと勘違いした。

無意識に「人の世話ができるような人間」にならなくてはいけないと思っていた。

何しろ子供の私が見ている世界で、両親ともに親類知人の世話をして、尻拭いをしてやって、相談に乗っていて、世話をされる様子は見たことがなかった。勘違いしない方がおかしい。

そのバイタリティあふれる両親の真似をしようとしてある日突然コケた。体がいうことを聞かない。勝手に涙を流し、やろうとしている逆のことをする。それが私にとってのうつとのつきあいの始まりだった。

 

うつは親と同じ人間にならなくていいと教えてくれた。

でも、間違いなく影響は受けているよと教えてくれる。

自分との折り合いをつけるために現れる。

折り合いがついていないと表に出てくる。

私の体に現れる魔法のサインとでも言おうか。

ただ、うつにならないように・・・と気を付けているとあらぬ方向からサインを出してくるのが体だ。そうきたか!と思うことがある。

 

「人の役に立つ」ってどういうことだろうか?

 

複雑に考えすぎると以前よく言われた。

でもやっぱり課題にすごく関わっている。

周りを優先し過ぎること。自分を優先できなくなること。

 

他人のことなら、周りを優先し過ぎていると感じたら声をかけることができるのに。

 

けどやっぱり、

人の役に立とうと一所懸命な人に声をかけることができても

選ぶのは本人にしかできない。

 

うまく立ち回れる人をうらやましく思うけれど

いい年してまだまだ同じような失敗をしそうだけれど

 

いい加減は身に着くまで試すしかない。

 

人の役に立つのは、犠牲になることではない。

他人を大切にする人が良い人でもない。

ここも比べることをやめる、ということかもしれない。

自分も他人も人だから。

 

頭でわかったつもりでも、現実に下ろすには反復反復。

頭が先走る世界、体が助けを求める前に肚に聞けるようになりたい。

(最後が独特過ぎて意味不なのはわかってます