直子の部屋

笑ったり泣いたり踊ったり暴れたり推し事したり。

ヤバい、落語が面白くなくなる。

昨晩は毎回楽しみにしている推し師匠の落語会へ行ってきました。

f:id:entsunagi705:20230622000649j:image

 

個人的コンディションは低調。
とはいえロビーや客席で常連先輩方と会話できたし、師匠の高座は楽しくて笑えた。大丈夫。

そう思えたのも束の間、帰りもなんとなく気落ちする。落語会に行けば嬉々として書く140文字の感想も書くに至らない。思っているよりヤバい?

今日になったら「もぐら泥」だと思っていたのは「おごろもち盗人」だったと耳にする。なんというか、前にも似たことがあってがっかりする。

落語を聴き始めたころ、落語の演目名はわからないから他の落語ファン発信で「へ~そういう名前なんだ」と覚えるのが楽しかった。寄席だと演題が貼り出されたりしないから、どうしても知りたければ聞く。そのうち上方から来た噺は似ているけれど名前が違ったり、同じ噺でも別名があることを知る。

その日に何が掛かったのか、書いて出ていれば写真を撮ったりして手元に残るけれど、同じ話が別名で出されていることも時々あるし、書いているのは前座さんだったり主催が用意したもののこともある。いちいち聞いて書いているのかも不明。かつてはどんな噺しをしたかわかるような印に近い記録だったと聞くし、名前も好みで変えてる師匠もいたとも聞く。

上方と江戸で似た話がある、違いがわかると楽しい。けれど、最近モヤモヤしたもう一つの噺しも上方の名前だったので、呼び方に流行り廃りもあるのかもしれないと思いつつ、前に聴いた噺しは名前間違えて覚えたのかなぁ、みたいな正しさを求める感じになってきている自分にイライラする。

結局のところ、覚え始めのころに推しの師匠が演った、その時見た演目の名前が自分の中では師匠の噺しの名前だと思いたいのだと思う。季節感が出る別名なら楽しい、違和感がある上方の噺しなら謂れの説明も入るんじゃないのか?という思い込みもある。

いずれにしろ、ある程度知識がついてくると知った気になって違和感に反応してしまう。低調な時は見つけやすいし反応しやすい。どんどんつまらなくなってしまう。

ともかく昨日の二席は聴いているときに「もぐら泥だ!」「寝床だ!」と思ったので修正なし。師匠の演り方が以前と違う感はあったけど、どこかのインタビューで息継ぎのタイミングが変わってきたとおっしゃっていたし、直接聞いていないから合ってても間違っていても確かめようなし。

思い返すと落語も落語家さんもいつも通りなのに「落語が面白くなくなること」は割と定期でやって来た。知識の件だって、うっとうしい話はもっとあった。過ぎればけっこうどうでもいいこと。
今はコロナで変わった生活習慣が思いがけず疲れる。会話より文字でのやり取りが増えすぎた。すごく単純に会話が足りないだけで、ただ疲れているのかもしれない。落語が面白くないのではなくて自分が面白くないということかな。

暗い。。性格でもあるけど、去年にも増して暗い。ヤバい。

 

「ヤバい。」と口にすると「ヤバくない」と言ってくれた謝楽祭の権太楼師匠を思い出す。落語を聴いてモヤモヤするなら聴かなきゃいいだけだ。別にヤバくない。演目がどーのと気になるならSNS見なきゃいい。別にヤバくない。

今楽しいのはつばめ師匠の本。演目も楽屋裏もネットで流れてくるようになったけれど、なぜか本で知ると楽しさが違う。静かに読めて急に変わったり訂正されたりしないから落ち着くのかもしれない。わかってるけど今は暗い。別にヤバくない。

落語の世界 (河出文庫) 落語の世界 (河出文庫)