直子の部屋

笑ったり泣いたり踊ったり暴れたり推し事したり。

やらない選択

1日早く連休に入ってダラダラ過ごしている。

でも実はやらなきゃいけないことをずっと先延ばしにしていて出来ないでいる。反対に先延ばししていて堪えられなくなったことを突然やることにした。どちらもストレス高くて逃げたい。ただ後者は、先が見えず怖い代わりに人に打ち明けられないほど暗い気持ちに風穴を開けられたようだ。手がつけられなかった部屋の一角を突然片付けられた。

好きなことや楽しいことには元気をもらえる。でも場合によって、気持ちを誤魔化す道具にしてしまう。お酒とか買い物とかスマホとか病気とか、キリがない。

推し活ソロ活もしたいし、おしゃべりも好きだ。調べ物も読書もしたい動画もみたい。やりたいことは山と思いつく。かと思えば仕事のこと人間関係のことに思い悩む。時間はいくらあっても足りない。悩むのは暇だからだと聞くけどそうでもない。体を使わなくなって頭だけヒートアップしている時代的病かもしれない。

とにかく「また」やっていることが広がり過ぎていると思った。手をつけ過ぎだなと。やらない選択が必要。整理する時間がまた来たと。

無意識に投げ出したり捨てたりした頃を経て、定期的に、意識的に、絞った時期がある。モノもコトもどうしても広がっていって散らかる。忙しい日々でも取捨選択が上手い人には走りながら整理出来ることかもしれない。それができないから、時々立ち止まる。立ち止まってグズグズとやるから、手放すのに時間がかかったり、寂しく思う事もある。でも「もうやらないことにしても良いんじゃないか?」と思いながらやっていることを立ち止まって時間をかけてもやめるのは必要だ。絞る、やめる、は大切な選択。少しの間、忘れていたのだけれど。

コロナ禍はステイホームとはほぼ無縁で部屋を片付けられる余裕はない日々だった。不安とプレッシャーの気疲れが続いて、散らかることも片付けられないことも敢えて放置した。お金持ちや成功する人は部屋が片付いている、なんて成功法則がSNSから流れてきて気になってウンザリしても、片付けないでいた。自分の気持ちを抑え過ぎて気持ちの何もかもがわからなくなってしまった経験があったから、自分の間合いを待とうと決めていた。

自分が納得しないことをやるほど、体は言うことをきかなくなる。世の中の情報はある程度正しいとは思う。それでも、なぜ片付けた方が良いとわかっていて出来ないのか、その謎を解く方を大事にしたい時もある。単にズボラなだけ、ということも多いけれど、それとは別の何かが理由だと漠然とわかる時は、放置を許す、をある時から選択肢にした。

放置を許す選択の他に、やらない選択、やめる選択も増やした。その時期がまた来たのだと思う。本気の1人作戦会議を重ねる時期がまた来た。

やらない選択を増やす時、寂しくなったり、一時的に人に迷惑をかけることになったり、ガッカリされたり嫌われたりすることも増える。疎遠になる人も場も増えて、置いてけぼり感も増すのだけど、本当に大事なことや必要な縁は残るし、手放してみても結局戻ってくる。不要になったら手放すことは自然だ。出来た余白には風が通って必要が入ってくる。実はやることが増えてしまう効率化とは別物だ。

具体的にやめることは他人から見れば小さな、どうでもいいことに違いない。それでも私にとっては大切なことを大切に出来る量にしていく大事な作業。会いたい人達に会いに行くのさえしばらく減らしたりやめてしまうかもしれない。寂しい。それぐらい自分が拗ねてるから仕方ない。区切りがつけば、大事なことが残って、自分らしく過ごせることに氣が落ち着くに違いない。静かにそれを楽しみにする。