直子の部屋

笑ったり泣いたり踊ったり暴れたり推し事したり。

明治10年 西南戦争の頃の圓朝

近頃つい見てしまうのが明治時代を取り上げた番組。
三遊亭圓朝の人となりに興味が湧いて以来アンテナが立ってしまった。

坂の上の雲」は関心がある時期の出来事を追う内容で見ていたら若い頃の柳家喬太郎師匠や古今亭文菊師匠が出ていて驚いた。初回放送当時は知識も関心もなかったのに今間があっているのが面白い。

配信で探して視聴できるようになってより情報を集められるようになった。
NHKはニュース映像の一部をAIの自動音声が読み上げたり、過去の放送を活用している。昔から新しい技術を開発導入しているけれど、今後の人手不足を見越しての取り組みなのだろうが、個人的には探して視聴できるのはラッキー。

「歴史探偵」は以前から好きな番組。放送中の大河ドラマの時代を取り上げたりする連動性がうれしい。

昨日(11/13)の放送は「明治維新 新政府の挑戦」だった。
明治維新で新政府が出来た後、廃藩置県廃刀令が行われるまでの間には政府がありつつ藩も全国に存在していたし、西南戦争があった。武士だった人達がどう切り替えていったのかは案外に知らなかったし、時代の流れにのるかそるかが事例として見える。

今年創立150年だとテレ朝の「相棒」で知った警察組織も、国家を守る大儀と武士の再雇用先となったと聞いて納得しながら、廃刀令後も刀を持てた人達と思うと現代では物騒に思えた。それから、武家の出で落語家や幇間太鼓持ち)になった人達がいた時代でもあったと去年の自由研究を思い出した。武士もその家族も身分が変わり、生き抜くために捨てたものもあれば、ある種自由を得る機会に揺れた時代だったように思える。

明治維新 新政府の挑戦 - 歴史探偵 - NHK

www.nhk.jp

去年の自由研究。武士から幇間になったのに上野彰義隊に参加した松廼家露八も思い出す。

entsunagi705.hatenablog.com

数日前に同じ番組の「伊藤博文」の回を配信で見たところだったので、圓朝と交流があったといわれる伊藤博文井上馨が政府の中心人物としてもがいていた時代がほんの少しリアルに感じられる。政治上の史実を知る程に圓朝とのつながりにも興味が湧く。

興味があって調べた時期の背景がわかると、出来事の捉え方が変わってくる。端的な情報だけでも見えることはあるけれど、何度も近くて違う情報に触れると、色を塗り重ねるように景色が見えてくるのが楽しい。

手元にある圓朝本で西南戦争廃藩置県の頃の圓朝をもういちど辿ってみる。

永井啓夫 著 新版 三遊亭円朝 新装版 (青蛙選書 36)

三遊亭円朝 新装版 (青蛙選書 36)

明治10年2月8日に鹿児島私学校の生徒が県庁を襲撃した。西郷隆盛を盟主として起こった西南戦争西南の役)の始まりだ。寄席もその影響か2月10日には営業時間の規制を受けている。

テレビや教科書で見ると一瞬の出来事で政府が勝った印象を受けるが、現代は他国で戦争がある時代なので、たとえ1年に満たないとしても、8ヶ月国内で戦争が続いて戦局が新聞が日刊になったばかりの時代に報じられていたとは安心できなかったのではなかろうか。

その頃の圓朝は禅に関心が向かっていた。「圓朝子の伝」によれば、明治10年頃には陸奥宗光渋沢栄一の贔屓を受けて度々彼らの邸宅へ訪問していており、陸奥の父で幕末の紀州藩士で国学者の伊達千広(伊達自得)と出会っている。

和歌や禅学に通じていた千広が催していた講義に参加するようになり、その後個人的に訪問して質問するなどしたようだ。伊達千広も圓朝との交流に思い入ったのか、床に伏して命わずかとなった千広は圓朝を呼び寄せ、横浜の万竹亭に出勤中だった圓朝はその知らせに驚いて駆けつけ、千広の最後を看取っている。明治10年5月18日のことだった。翌年の明治11(1878)年には陸奥宗光は政府転覆を企図した土佐立志社事件に関係して山形と宮城の監獄に5年禁固となっていた。伊達千広という存在も興味深い人だ。

伊達千広の講義の席で圓朝幕末の三舟と呼ばれた一人、高橋泥舟と出会っている。泥舟の義弟が山岡鉄舟で、この縁で圓朝と鉄舟が出会う。高橋泥舟は生家が元は旗本の山岡家で槍の自得院流(忍心流)の名家。次男という理由からか母方の高橋家を継いだ。幕末は徳川慶喜の側近として信頼が厚かった人物だ。

長男が早世した山岡家を継いだのが妹の英子の娘婿で門人の小野鉄太郎、後の山岡鉄舟明治10年当時、鉄舟は明治天皇の侍従の立場でもあった。その後の明治16年に、鉄舟は明治維新の際国事に殉じた人々の菩提を弔うために全生庵を建立する。

明治も10年過ぎたとはいえ、まだ国家としては問題山積の時期。江戸幕府の終焉を直視し、時代を大きく動かした江戸無血開城の立役者達と圓朝は繋がり、明治維新後も西南戦争の苦難を経て御一新に向き合う人達を目の当たりにしたという訳だ。

明治維新後も旧藩士・出淵家の血を意識していた圓朝。幼少期に寺で過ごしていたから禅に触れていたともいわれる。芸人の一面もありながら一門をとりまとめる頭取の位置にいた圓朝が学びたい師となるリーダー達に囲まれた時期に見える。圓朝不惑、40歳になる頃のことだった。

山岡鉄舟との関わりに対して、落語家としてではなく友人として圓朝と親しく付き合ったといわれる井上馨との交流は思いのほか情報が少ない。渋沢栄一との関わりを考えるとすでに出会っていたはずだが、出会いがいつごろの事かはわからなかった。

日本の伝統芸能にも造詣深く、茶道に通じ、古美術コレクターでもあった一方、鹿鳴館を建てる際にも関わるなど、文化交流は和洋二刀流、感情的な一面もありながら人の起用に長けて情に厚い井上馨圓朝との共通点も多く思えるし、相対するところが良い相性だったのかと思われるところもあり。ミステリアスなだけに興味が湧く。

圓朝の逸話で少し珍しいものを見つけた。明治時代の日本陸軍軍医で草創期の軍医制度を確立した子爵で茶人の石黒忠悳(いしぐろただのり)のもので、圓朝が話をしたい人物に出会うと積極的に出かけて行っている印象を受ける。前に書いた伊達千広の話にも通じる。

私は一体芸人といわれた社会の人々とは交渉のない人間でしたが、この圓朝君とは最初松本順先生の処で会ったのです。その後間もなくこの人が、手拭と藤村の羊羹か何かをみやげに持って私を訪ねてきました。座敷へ通して会うと、私の事を「御ぜん(御前)」と呼びますから私は「圓朝さん、私を御ぜんなどと呼ぶなら、これきりおいではお断りだ、落語家なり芸人なりの圓朝と、この石黒を殿様としての交際はまっぴらだ、芸人ではなく出淵さんと、石黒の交際なら、喜んでする。」といふと、それは誠に有難い事と喜んだので、初来の客だから茶を点ててすすめ、一時間も話しました。その後種々の会で人を招いたり招かれたりした折にも度々逢うて話す事があり、又春秋には必ず来訪して呉れました。

引用元:石黒忠悳 著『懐舊九十年』,博文館,1936.2. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1884883/1/221 (参照 2024-11-14)

積極的で勉強熱心な圓朝はこんな調子で話したいと思うと懐へ飛び込むタイプだったのだろうか。松本順先生とは初代陸軍軍医総監で男爵となった人物だ。

圓朝は泥舟から槍術、鉄舟から剣術の教えを受けたという説もある。文武両道で勉強好き、茶道華道書道もたしなみ庭に詳しい。これだけの人達に囲まれていたらさもあらんと思いつつ、冷静沈着なイメージより後年も好奇心旺盛を隠れ持つ印象が強くなっていく。石黒の逸話は後年と思われるが、明治10年圓朝の意識が変わる時期だったに違いない。