直子の部屋

笑ったり泣いたり踊ったり暴れたり推し事したり。

平櫛田中「鏡獅子」との思い出から

行きたいけれど叶わない静岡での平野富山展覧会。
一度諦めたのにあと数日と思うと諦めきれず巡回希望。

「平野富山展」|静岡市美術館

とは言いながら、SNS静岡市美術館のポストを見るまでこの人物の存在を知らなかった。平櫛田中との縁を表すタイトルと、ポスターの木彫彩色の作品「羽衣舞」を見て驚いた次第。

国立劇場から井原市へ里帰りしたばかりの鏡獅子は登場しないものの、「試作鏡獅子」を始め鏡獅子関連の作品も揃っている様子。いかに関係が深かったのか、この展覧会が行われると知ったことがきっかけで再び平櫛田中にも鏡獅子にも、そして木彫彩色にも関心が向きました。

平野富山は上京前に静岡市内の指物所などで様々な職を経験していると知って、指物をしていた祖父や、木製品や雛道具を作っていた故郷の職人町を思い出します。

昭和世代なので、雛人形の他にも彩色された人形飾りを目にして育ったし、展覧会のアイコン作品は能と三保の松原が想起される羽衣舞。富山が故郷で目にしてきたものが作風に影響しているとするなら、興味深いことです。

清水が生んだ彩色木彫の名匠「平野富山常設展」:静岡市公式ホームページ

気が済まないのでNHK日曜美術館で以前放送された、平櫛田中の鏡獅子制作秘話の録画を見直しました。

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見る機会はたくさんあったのに、手元にあった鏡獅子の写真は文珍師匠の大独演会の演題越しでした。

放送当時は毎日のように鏡獅子の前を仕事で行き来する生活でした。仕事に必要である程度作品についても知識を得ていましたが、あくまでお客様対応のためのもの。毎日の業務に疲れて素晴らしい作品を前にしている意識は薄れていることも多くありました。

それでも特別な存在感があって、お顔を拝見して気合を入れ直したり気持ちを入れ替えることは多かった。歌舞伎や伝統芸能への造詣が足りているとは言えない自分が、始終舞台や客席に居られずとも勉強させてもらえる場と思わせてくれる存在でした。
今思い出しても国立劇場の鏡獅子は特別です。

本でも録画映像でも、見直すと面白いもので今意識が向いていることや間に得た経験で気づくことがありますね。放送の中で平野富山の名前は出てこなかったようでしたが、師の池野哲仙と平野富山(富世/敬吉)は田中作品の彩色には欠かせない人だったようです。

鏡獅子のモデルは六代目尾上菊五郎、モデルになって欲しいと願った平櫛田中。共に西洋を取り入れ学んだ上で日本を表現しようとされていました。菊五郎丈はバレエなどの西洋的な表現を研究し新風を取り入れ、田中は木彫の革新にロダニズムを研究。明治10年代に生まれ育ったお二人だったからこそ、自然なことだったのかもしれません。西洋化が進み、伝統的文化的な存在の先を憂いた時代ですが、西洋がなければ日本らしさを見失うという、時期だったのかもしれません。伝統芸能の世界にも芸術の世界にも「伝統を未来へつなぐための作品」を創る必要があったと感じます。

田中が理想として意識した8世紀に作られた鑑真和上坐像。歌舞伎の躍動感と華やかさと六代目菊五郎という役者を写し遺すために必要とされた彩色。作品に用いられた木彫彩色は異彩、けれども8世紀には既に存在していた彩色像。鏡獅子の試作のひとつ、「鏡獅子試作裸形」の六代目の顔立ちに思わず落語にも登場する左甚五郎が過りました。

番組の最初にまだコロナも来ていない、再整備で責められてもいない平和な国立劇場が映っていました。「伝統を未来へつなごう」と生まれた鏡獅子は、今思えば邪気仏敵を追い払う仁王様、金剛力士像にも思えます。鏡獅子が里帰りしている隙に受けている再整備に関連しての批判は、先々の追い風だと思いたい。

鏡獅子は60代後半から研究を始め、完成まで22年。発表された1958年には平櫛田中は87歳。国立劇場の建設用地が三宅坂に決定した年。「伝統を未来へつなぐための作品」として鏡獅子は象徴的な存在だっただろう。

第102回 上野・谷中・小平へ 平櫛田中を感じる旅 | 出かけよう、日美旅 | 日美ブログ -番組がお届けする美の情報-:NHK

www.nhk.or.jp

日美ブログの中に鏡獅子の彩色に関する一文を見つけました。

鏡獅子はヒノキの寄せ木でできていますが、彫りが完成した後に漆をかけ、体の部分は全体を金ぱくで、髪の部分は銀ぱくで覆い、その上から着彩が施されています。重さは像だけで225kg、台座は150kgあるとのことです。

出かけよう、日美旅| 2019年10月27日 第102回 上野・谷中・小平へ 平櫛田中を感じる旅 より引用

平野富山の存在を知らなかったら、彩色についてはそういう技法があるのかと思うだけで、田中本人がしたものと考えていたでしょう。実際の制作は富山の他にも携わる人達がいたことも考えて見れば当たり前なのに、今回改めて知りました。

平野富山の展覧会には行けそうにありませんが、平櫛田中の作品の彩色作品や平野富山ご本人の作品も、間近で見る機会を作っててみたいと思います。