直子の部屋

笑ったり泣いたり踊ったり暴れたり。

知らないままでも楽しめる ~代官山落語夜咄トークレビュー~

直接足を運べなかった落語会の配信を滑り込み視聴。

落語一席とは別に共感度がかなり高いお二人の落語トークがあるということもあって楽しみに聴いた。

三遊亭兼好落語集 噺し問屋 悋気の独楽 / 陸奥間違い

落語会のネタ出しは『陸奥間違い』

話の中で

古典落語に出てくる言葉やオチ(サゲ)が現代では通じない時に
どこまで説明を入れるか、という話題が出た。

「お客様に解釈をする余地を与えた方が親切だと思う」と兼好師匠。


落語は話の中に今時の価値観で分らないこと、通じないこと、許されないことがサラっと入ってくることがよくある。

 

へっついにねずみの懸賞。

今でいえば不倫ネタ詐欺ネタも心中もある。

出来た娘が借金の為に身を売ることはたしかに茶飯事。

 

物語の中にある残酷さが今では強烈過ぎるなら救いのある形に変える。

男の身勝手が不快と感じる人がいれば今受け入れられる形に合わせる。

そんな優しい演者はいるものの、
今は通じない時代背景や言葉の由来。説明は入れすぎるとくどくなる。

 

古典と呼ばれるもの世界を敷居が高いと感じる人たちは
ちょっとした言葉がわからないことがひっかかるけれど
落語を聴き始めた頃、わからないことだらけだったけれど面白かった。

何度も廃れた時代がありながらも現代に続いている落語は
明治・大正・戦前の雰囲気をいかに現代に残すかがテーマにあったのではないか?

わからないままでもいいのではないか?と広瀬和生さんが言う。

 

時代背景で今は使わない言葉も品もあるのが当然自然だし
そもそも噺し(物語)のことなのに
なぜこういう話がトークの話題になるのだろう。

知らないと想像できないからだろうか?

知っていたら想像できる?

 

トークを聴いていて思い浮かんだこと:

日本画の余白や雲。日本人の想像力と余計な部分を隠す手法。

子供の頃に読んだ本。知らない言葉や漢字だらけだった。適当に読み流していてもなんとなく言葉は覚えていった。

でも新しいこと知らないことだらけが面白かった。大人の言葉を知った気がした。

図書館で借りた落語のテープ。今よりずっと子供に聞かせられない表現が入っていた記憶があるけど、当時はテレビでも今では絶対に見られない様子が流されていた。

親との気まずさはあれど、隠し過ぎない分おおらかに捉えられていた。

映画のスクリーンに映る世界は別世界で知らないと言う間もなく次のシーン。

知らないことなんて流れても困らないし楽しい気持ちが残った。

学生時代は昔の生活様式や趣味や楽しみを知る楽しみを見つけた。

民俗学の授業やフィールドワーク、レポートを書くために取材した職人さんからの話や週末巡って見た浮世絵の中の景色が昔と今が繋がっていることを教えてくれた。

そういえば歌舞伎も首実検とか子供に切腹させるとかあるし文楽だって・・・(以下省略

 

人が噂して好むゴシップをストーリー(物語)に取り込むのは

事実としてはあってはならないものを芝居として見ることができるからで、芸術芸能の魅力でもある。

 

知らないとひっかかるのは怖いということだろうか?

誰かから指を差される、ナメられる、ダマされる、許されないと思うのだろうか。

全てを知っている完璧で隙がないのは面白いのだろうか。

 

そもそも全知全能なんて人は人間ではないと思うから(笑)
もしそういうフリ、あるいはそう信じて振る舞っている人がいたら

冗談が効かなくて話しかけにくい

上から目線でこちらの無知を責められるんじゃなかろうか。

つまり一人完結の人。そんな人物イメージ。

でも落語好きにはそんな人たくさんいると思うけど

落語のように演者と客双方の想像力が要らなかったら?
どちらかが完璧でそちらに任せる高座。

すごいかもしれないけど、想像以上の高座には出会えないかもしれない。

想像以上が受け入れられないかもしれない。

昭和の名人時代はそうだったのかなぁ

もしかしたら昭和の名人が君臨したのは客に聴く力があったからかもしれない。
現実は現実、芝居は芝居、余計なことを忘れて楽しむのが高座。
昔の音源にはおおらかな笑い声がよく入る。

 

演者が飲みこんでいれば客が知らなかったとしてもなんとか伝わる。

そんな言葉が兼好師匠から出た。これも共感する。

頭の知識でなくその場の感覚に任せる。
時に演者に頼って、時に自分の記憶や知識に頼って、
わからなくて気になったことは、あとから調べて知る楽しみにもなる。

 

相手なりの解釈をする余地を与えて任せる。
知らなくても面白かった。後から知ってもっと面白くなった。

これって最高の信頼関係かもしれない。

 

兼好師匠の『陸奥間違い』は
どこまでが本当でどこまでがウソ(創作)かわからない。
なのに引き込まれるとてもいい噺。

わざわざ史実を確認して違うじゃないか!という必要はない。

落語だけでなく小説でも映画でもテレビでも芸術でも
知らないことがあるから楽しい。

 

落語の場合は同じ噺しに織り込まれる言葉が
演者やその日その場季節天気客席の雰囲気や自分が座る席の位置や心持ちで一度も同じにならないから面白い。

 

ただ高座を聴くだけでもそんな楽しみがあり
時々そんな落語がもっと楽しくなるトークが聞ける。

この配信が終了するのは惜しいけれど、
視聴して案外思い浮かぶ記憶のあれこれに繋がって面白かった。

内容が伝わらなかったとしても何かしら伝わるんじゃないだろうか。

 

知っているかどうか責められない場所として
是非一度寄席や落語会に行ってみてはどうでしょう。

今は行かずとも配信もたくさんありますが
他にあまりない演者さんとの距離は体験の価値あり。
客席の一体感もあったりなかったりが他ではないと思います。

そもそもみんなで前向いて爆笑する場なんてそうそうない。

追われない責められない場所として居心地良く
高座に上がる人達は全知全能でないから魅力的でついまた行きたくなる。

 

言っているうちにまた行きたくなりますな。