直子の探求時間

気になること、落語のまわりなど

昭和45年3月21日の三遊塚法要と当時の木母寺

8月から三遊亭圓朝が木母寺に建立した「三遊塚」の新聞記事をいくつか紹介しました。実は昭和にもう1度三遊塚で法要が行われた記録があります。

三遊塚について新聞記事を調べてみたいと思ったきっかけがこの出来事でした。残念ながら今回は記事の本文や写真は紹介できませんが、きっかけからの経緯を書いてみたいと思います。

 きっかけはデジタルアーカイブのローラー検索作戦

三遊塚や木母寺に興味を持ったのは五代目圓楽一門会主催の三遊塚追善供養に参加してから。ハマったばかりの国立国会図書館のデジタルコレクション(所蔵資料をパソコンやスマートフォンで閲覧できるデジタルアーカイブ)で手始めに「三遊塚」と「木母寺」を検索してみました。本文から抽出された一覧に出てきた書籍を片っ端から見る中で気になる一文を発見します。

防災拠点の梅若塚 

“同寺の境内でもある公園内には、例によって碑が多い。昔は付近に有名な料理屋もあり、風流人の遊び場だったなごりでもある。(中略)「三遊塚」は落語にゆかりの深いもので、約八十年前、名人といわれた三遊亭円朝が中心になって建てた。震災や戦災で一時地中に埋まって荒れ果てていたが、最近地元の人たちの協力で修復され、落語協会の“後輩”たちによる謝恩法要が盛大に行われた。

引用:羽鳥昇兵 著『東京歌舞伎散歩』,読売新聞社,1971. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9640208/1/115 (参照 2025-09-06) ※閲覧にはログインが必要です

もしかして圓生師匠が関係しているのかも

『東京歌舞伎散歩』は昭和46(1971)年5月に出版されたものでした。「最近」とはいつのことか。近い頃なら六代目の三遊亭圓生師匠が落語協会の会長だった時期です。地元の方の協力で修復されたことが圓生師匠の耳に入れば、落語家でなにかしよう、となるのは想像がつきます。

仮に前の年ぐらいの出来事なら、六代目の円楽師匠が入門した年。もしかしたら参加したかもしれない。2020年の三遊塚追善のニュースで羽織袴で並んでいた好楽師匠、圓橘師匠、鳳楽師匠もその追善供養を覚えていたのかもしれない、と思いました。

hochi.news

日付を特定したい

そうなってくるともっと詳しく知りたい。圓朝が木母寺に三遊塚を建てた理由もあまりよくわからないし、三遊塚建立当時の木母寺の状況も知る程謎ばかり。まとめられた情報も見当たらない。そこで建立された頃からこれまでの三遊塚に関する情報を拾い集めることにしました。昭和46年頃の謝恩法要が「いつ行われたのか」も見つけたいことのひとつとしました。

図書館を渡り歩く

気になったことを起点に自由研究し始めるスタイルなので、落語について、三遊亭圓朝について、三遊派について、歴史などの体系的知識は圧倒的に足りません。もっといえば他の伝統芸能や芸事、舞台に関しての知識もほとんどが経験からくるもの。活かせるものは興味を持って調べたことがあるか、裏方表方の仕事上必要で知った知識、そして客席で楽しみながら聴いたどこまで本当かわからない情報のみ。かといって研究者や評論家のような知識をつけてから、なんて考えたら途端にやる気が失せてしまうので、知りたいことを追う楽しい宝さがしとして調べる方法を考えました。

手始めに使ったデジタルアーカイブという道具は強力です。自宅にいながらにしてキーワードで資料を探し当てられる、書籍に書かれた情報を渡り歩けるのはすごいことです。活用できるところはこの方法を使いました。

けれどもアーカイブという意味でデジタルツールはまだ不完全。特に調べたい時代の情報はまだこれからの道具です。日進月歩で資料は増えていますがデジタル化された書籍・資料は限られており、家から閲覧できるものにも制限があります。

調べるべき資料のあたりを付け、実地で確認し、地道に資料を読んでいく、といった様に作業を組み合わせました。こういう作業は子供の頃から図書館でよくしていたし、社会に出てからリサーチする時にもしてきたことなので、興味があることに応用できるのは楽しい。

すでに落語や圓朝、石碑のことなどを調べている人が個人サイトやブログで共有してくれているインターネット上の情報だとか、書籍検索で得られる情報、家で読めるもの、行ける図書館の棚から取って読めるもの、マイクロフィルムを専用機械で閲覧して自力で見つける方法、新聞社のデータベースを併用する、などなど調べた方法は様々。行き詰ったら他の資料から探せないか、足を運んでいない場所に資料がないか、利用できるサービスがないか動いてみます。

調べることが明確になる程、国立国会図書館は強力な味方で、通える環境にいたことは幸運だと感じました。国立劇場の図書閲覧室も演芸資料は宝の山。この二つの図書館が至近距離なのは個人的に嬉しい。比較的利用方法が簡単で気軽に閲覧できる都立中央図書館も調べ物は抜きでも演芸関連書籍が楽しめます。

これまで紹介した三遊塚の新聞記事には、国立国会図書館のデジタルコレクションでほんの数文字の年表記載を手掛かりに見つけたものもありました。特に昭和11年の三遊塚の復活(復興)追善供養が行われていたことは予想外の発見でした。三遊塚を作った石工・宮亀年の記事も面白い発見でした。

ようやく日付を特定

三遊塚について調べていくと、既に紹介した通り、昭和11年の追善供養があったことが判明しました。でも昭和46年近くの「修復と落語協会の後輩たちによる謝恩法要」はいつの出来事かつかめませんでした。

そこで圓朝に関して調べる時に特に参考にした資料を思いかえして、ダメ元で『圓朝考文集』にヒントがないか見てみることにしました。この文集は昭和に圓朝を研究する人達が刊行会を作って昭和44(1969)年の第一巻から昭和49(1974)年の第六巻までは毎年、そして昭和52(1977)年の第七巻まで出されていたものです。この文集には藤浦富太郎氏(圓朝の遺品を受継いだ藤浦三周の子)も寄稿しており、別録として藤浦富太郎氏による『随録 三遊亭圓朝』『続随録 三遊亭圓朝』も発行されていました。企画された時期や関わっていた方々の顔ぶれにも期待ができました。(限定的に出版されたもののようで購入するには高価な古書ですが、国立劇場に蔵書があり、図書閲覧室で閲覧可能でした)

圓朝考文集』の目次を第一巻から順に見ていくもそれらしい項目はなし。もう少し細かく見ていくと、第二巻の「圓朝研究・最近の話題」という項目に

円朝によって向島木母寺に建立された「三遊塚」が本年三月二十一日、八十二年ぶりに脚光を浴び、現六代三遊亭円生氏らによって盛大な供養が営まれた

と書かれていました。この2年ほど度々手にしている『新版 三遊亭圓朝』の著者 永井啓夫氏によるものでした。『圓朝考文集』第二巻が刊行されたのは昭和45(1970)年なので、予想した年だったことがほぼ確定できました。図書閲覧室で静かに歓喜(笑)

それでも「本年」をしつこく確認したいのと、「盛大な供養」の様子をさらに知りたく当時東京で発行されていた新聞を調べることにしました。

新聞社のデータベースで

東京の新聞記事を調べる。言うのは簡単ですが一紙ずつ見ていくのはなかなか忍耐が要る作業です。昭和45(1970)年に東京で発行されていた新聞といっても大手全国紙、地方紙、スポーツ紙と数もあり、それぞれ特色があります。何紙も購読する習慣はない上、近頃はネット版の記事を読むことがほとんど。演芸の記事が強い新聞社もすぐ思い浮かばず、どこから調べたらよいかまるでわかりませんでした。試しに見てみた大手全国紙には演芸関連の記事はまるで見つからず絶望からのスタートでした。趣味でよかった。

各紙記事の掲載順や文字や企画などの特徴もあります。1日で見つかるはずもなく、紙面を端から見ていく作業は目が慣れるまで毎回時間がかかり、頭と目の負担が大きい。調べたい癖は直らないので本気でアイケアを考えるようになりました。

偶然目に留まる記事から時代は読み取れるものの、選んだ何紙かの縮小版やマイクロフィルムでは昭和45(1970)年3月21日頃に三遊塚の供養を紹介した記事は見つかりません。

新聞 | リサーチ・ナビ | 国立国会図書館

電子ジャーナル・データベース | NDLサーチ | 国立国会図書館

そこで「リサーチ・ナビ」で新聞を調べる他の方法を確認してみました。「リサーチ・ナビ」は国立国会図書館のサービスのひとつで、資料の調べ方案内です。調べてみたいけど何から手を付けたらいいかわからない、という人に代表的な資料や調べ方を教えてくれます。調べることに関心を持った人に全力応援してくれるので、案内にしては情報が膨大だったりしますが、とても整理されていて自己流でネット検索するより早く解決策が見つかることがあります。個人的なおススメはやはり「大衆演芸について調べる」です。

ndlsearch.ndl.go.jp

「リサーチ・ナビ」で試していない新聞の調べ方を確認すると、個人利用には少しハードルがある大手全国紙などの新聞記事データベースの検索サービスがありました。新聞社のこのサービスは国立国会図書館の利用登録があれば図書館館内でなら利用できます。

早速データベース検索を使ってみると、まだ調べていなかった毎日新聞 東京版に記事があることがわかりました。掲載内容もその場で確認できましたが、マイクロフィルムでも確認しました。掲載日は昭和45年3月22日。『圓朝考文集』にあった「盛大な法要」が昭和45年3月21日で間違いないことが確認できました。圓生師匠も列席していました。昭和の名人達の名前もありました。3月21日は初代圓生が亡くなった日ですが、この年のこの日はお彼岸の中日、つまり春分の日だったようです。

昭和45年頃の木母寺は

この年は3月15日から大阪で日本万国博覧会が開幕しました。現在行われている大阪万博のひとつ前の大阪万博ですね。三遊塚の法要が行われたのは、開幕1週間後のこと。新聞紙面にも万博にまつわる記事や広告が多くありました。日に日に来場者が増えて、今の万博の比にならない規模の混雑だったとか。

高度経済成長期の華やかな時期に思えますが、木母寺では大変な事態が起こっていたようです。

『木母寺誌』によれば、昭和43(1968)年秋ごろに東京都の防災拠点計画の第一号に木母寺や隅田川神社一帯を含む地域が第一候補地「白髭東地区」として挙がっていることがスクープ報道され、その計画案では「寺社の敷地は残らない内容」となっていたのだそう。

住職が知らない所で計画は進んでおり、当事者ではない人達の計画賛成・推進運動もある中、ようやく東京都と寺社の保存に向けて交渉を持てるまでになったのが昭和44年から45年頃のことだったとか。

その後も木母寺と隅田川神社の保存はできることになったものの、元の敷地を維持することはできず、同地区内での移転となるなど紆余曲折が昭和50年まで8年近くかかったと記録されています。今の木母寺へ行ったことがある方ならお察しのことかもしれませんが、都の防災拠点計画とは墨田区の防災団地「白鬚東アパート」の計画です。

 

三遊塚の修復がそのことと関わりがあったのかはわかりませんが、地域の名前も変えられ、寺社の場所も移されてしまう事態。地域の方も驚かれたでしょう。何かしなくては、と感じた地元の方もいたんではないかと想像します。盛大な法要は時期からして今の場所ではなく移転前の木母寺境内で行われたものと思われます。

 

 

明治の御一新で一度無くなってしまった木母寺が20年ぶりに復活した明治22年に三遊塚は建立されました。昭和45年に木母寺が再び消滅する危機にあったと考えると、移転してでも残った現在の地を江戸時代の浮世絵や明治のような風情が残っていない場所だなんて軽々しく言うことはできません。当時の住職のご尽力がなかったら、巨大な壁のような白鬚東アパートと入れ替わりに三遊塚も芸能に縁の深い梅若塚も50年以上前に消滅していたかもしれないのですから。

個人的な関心から調べたことでしたが、建立された当時もその後も節目に三遊塚に人が集まっていたことが知れてよかったです。そして木母寺のことはもっとその波乱万丈の歴史が知られてもいい気がします。

昭和40年代初めの様子も

新聞社が運営するデータベース検索には新聞記事の他に写真データベースもありました。毎日新聞が運営する「毎日フォトバンク」には昭和45年の法要より3年半前にあたる昭和42(1967)年12月に撮影された木母寺境内の写真が数枚あり、その中に三遊塚が写っているものもありました。

こちらも写真をここに掲載はできませんが、このデータベースは法人契約がなくても調べてみることはできるようです。

「木母寺」検索結果 | 毎日フォトバンク - 毎日新聞社

池田写真文庫 東京・墨田区編 木母寺境内の石碑

 

移転前の木母寺の面影が写真で記録されていたことは予想外。境内の様子も想像とは少し違い写真で見る限りは”一時地中に埋まって荒れ果てていた”程には見えませんが、建立当時ともまるで様子が違っています。

再び『木母寺誌』を見てみると、木母寺は昭和20(1945)年4月13日に本堂などが空襲で焼失、なんとか残った梅若堂も直後の15日に空爆で損傷を受け、復興にも困難を要した模様。

仮本堂が建ったのは昭和25(1950)年の12月、梅若堂は更に時を要し昭和27(1952)年5月のこと。そして1000坪近い境内は戦後になるとより激しく地盤沈下が起き、湿地化してたびたび水が出ていたのだとか。復興への障害になると思われた頃に墨田区で児童遊園建設が計画され、境内としての景観と役割に配慮する取り決めの上で協力し、境内は緑地化対策が取れたようです。

この話から考えて、昭和20年代に戦災で石碑が地中に埋もれてしまった時代があり、昭和30年代半ばから境内が緑地化されて児童公園となった様子が昭和42年の写真に残されてたと考えられます。緑地化が落ち着いた後、ようやく石碑が修復される番が来たとも言えますが、昭和43年秋にはもう防災拠点計画の一件で報道に巻き込まれています。

もし地盤沈下する土地のままだったら、東京都の防災拠点計画の第一号にはならなかった気もして、木母寺の数奇な運命を考えてしまいます。

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現在の木母寺ご本堂(2024年撮影)

まとめ

タイトルに対して木母寺の話が長くなってしまいましたが、今回紹介した昭和45年の法要のお話で新聞記事で知った三遊塚のお話はひと区切りです。

三遊塚の建立からこれまでの136年を調べようとすると木母寺の歴史は欠かせませんでした。その間にあった追善供養という出来事を点で繋ぐと、調べただけでも木母寺も三遊塚も驚く変化の連続だったことがわかります。まだ知りたいことは今後もを調べつつ、わかりやすいまとめも作れたら(願望)と思います。

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梅若念仏堂と三遊塚(2024年撮影)

 

昭和11年4月22日 報知新聞「菰かぶり据え三遊塚復興式」

また久しぶりになってしまいしたが、三遊塚の新聞記事紹介の続きです。

内容は昭和11年4月21日の三遊塚復興式の様子。報知新聞の記事です。
前回紹介の國民新聞でも復活追善供養として取り上げられていました。

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菰かぶり据え三遊塚復興式 落語界総出

 

落語界の名人だった故三遊亭圓生の頓生菩提供養の碑である向島木母寺境内の三遊塚は震災後久しく荒廃に委されていたところ、先頃来 吉田鐵心老、向島津留岡、一龍斎貞山桂文治、源一馬の初老の肝煎で落語界総がかりの復興工事目出度く成り、二十一日午後一時賑やかな復興式をあげた、式に列するものは帝都落語界のオール・スター・キャスト……こもかぶりを景気よく据えて向島、大塚 両検番芸者衆の供養踊りもあってワァーワァー(写真は復興した三遊塚)

 

出典: 報知新聞 東京版(現・読売新聞)昭和11年4月22日
注:送り仮名、旧字、片仮名などの読みにくいものは現代様式に一部修正
記事掲載写真は人物部分を一部加工

前回紹介した國民新聞の記事からは読み取れませんでしたが、関東大震災後に三遊塚は荒廃しており、復活を願った人達の「肝煎り」で復興工事に至ったことがわかります。

震災から約12年半。都内の震災復興は目覚ましかったとも聞きますが、震災以前から続いた昭和恐慌もあり、復興は日々の暮らしに直結したところからだったのでしょう。二ヶ月前にはニ・ニ六事件があり、このころから後は軍部の発言力がより強まり、翌年には盧溝橋事件をきっかけとした支那事変(日中戦争)、後の大戦へ巻き込まれていく時代です。

2・26事件とは?|NHK戦争を伝えるミュージアム 太平洋戦争をわかりやすく|NHK戦争証言アーカイブス

日中戦争とは?|NHK戦争を伝えるミュージアム 太平洋戦争をわかりやすく|NHK戦争証言アーカイブス

 

中心となった人達は“吉田鐵心老、向島津留岡、一龍斎貞山桂文治、源一馬”とあります。

一龍斎貞山は六代目 一龍斎貞山。3年後の昭和14年には講釈師でありながら三代目の落語協会会長となった人物です。三代目神田伯山、二代目大島伯鶴と共に「釈界の三羽烏」と評されたのだとか。

桂文治は八代目桂文治。東京生まれで義太夫語りから落語家に転身した人ですが、一時上方で三代目桂文枝門下としても修行しており、師匠の死後に三遊亭圓朝の弟子で圓朝が寄席を引退した際に上方に移り桂派に所属して活躍した二代目三遊亭圓馬の弟子となりました。母親が六代目桂文治の後妻となった縁で八代目桂文治を襲名しましたが、師弟関係としては三遊亭の人物でもあり、三遊塚復活に尽力したこともうなづけます。後年六代目の落語協会会長も務めています。

源一馬は寄席の色物で活躍した剣舞師。剣舞の他に寄席の踊りも得意とし、抜群の人気で剣舞を一代で寄席芸の人気ジャンルに仕立て上げた人だとか。
(追記:この方は四代目橘家圓蔵の一門だった。四代目圓蔵は師匠の四代目圓生に次の圓生にと指名された人で、襲名せずに亡くなっている)

吉田鐵心老、向島津留岡という人物は確定にいたる情報までは見つけられませんでした。

 

写真を見てみると紋付きの羽織姿の落語家と思しき方々が数名見えるものの、記事にある菰かぶり(こもかぶり)の酒樽は見えません。

向島、大塚 両検番芸者衆の供養踊りもあってワァーワァー”と賑やかだった様子なので、菰かぶりのお酒も供養を終えたら振る舞われてしまったのかもしれません。

ちなみに菰かぶりとはよくお祝いの席で鏡開きに使われている酒樽のことです。江戸時代に上方から江戸に運搬する際に馬を使った陸運から船を使った海運へと発展して酒樽も二斗樽から四斗樽となり、破損を防ぐ目的で酒樽に菰(こも)を巻き付けたのが、菰樽(菰冠樽:こもかぶりたる)の始まりだそうです。菰に特色のある意匠が施されるようになったのは銘柄を見分ける目的からなのだとか。落語の中で”角樽”と”菰っかむり”はたまに登場しますね。ちなみにこちらもたまに出てくる”きって”は酒切手のことでお酒の商品券のことです。

(参考)
明治33年創業 菰樽専門店岸本吉二商店 「菰樽(こもだる)の歴史」

酒切手|灘の酒造り

 

この記事の写真では芸者衆がいるようには見えませんが、前回の國民新聞の写真と併せて見ることで伝わってきます。報知新聞の記事には向島の他に大塚の見番芸者衆も来ていたことが書かれています。たくさんの芸者衆が来ていたことは間違いなさそうです。

昭和11年の復興は三遊塚に菰かぶりの酒樽を据え、芸者衆が「供養踊り」で場を盛り上げたというので供養というよりお祭りに近い雰囲気を感じます。明治22年の三遊塚建立の大施餓鬼とは少し様子が違った印象です。現代までに90年近く隔たりがあり記事の内容だけでは当時の「肝煎り」を想像するのは難しいところもありますが、先人の思いを再び繋いだ出来事に違いありません。

 

(70年以上経過した新聞記事ですが紹介にあたり読売新聞への記事掲載確認を行いました)

 

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昭和11年4月22日 國民新聞「三遊塚復活 きのふ追善供養」

8月も終わりに近づいていますが久しぶりに三遊塚の新聞記事紹介です。

今回の記事は明治22年の建立からからかなり下って47年後、昭和11年のものです。

三遊塚復活 きのふ追善供養

 

木母寺境内の三遊塚の修復成り廿一日その復活追善供養が落語界総出動、向島花柳界連中も応援して盛大に挙行された

 

出典: 國民新聞(現・東京新聞)1936年4月22日
注:送り仮名、旧字、片仮名などの読みにくいものは現代様式に一部修正

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記事ではこの時期に三遊塚の修復が行われたことが読み取れます。工事が無事に終わり、昭和11年4月21日に復活追善供養が行われた様子を伝えています。

写真の中央、三遊塚の正面には僧侶がうずくまっています。読経の最中でしょうか。右手には吊り下げ旗か幟旗がいくつかはためいているように見受けられます。両脇には着物姿の女性達が並び、左手前には羽織を着た男性と思われる人の顔と姿、左奥にはたくさんの人がいるようにも見えます。記事本文にあるように向島花柳界の女性達と落語界の人達が総出動しているのでしょうか。たくさんの人を集めて盛大に行われた模様です。

 

梅若塚 木母寺『木母寺誌』によれば、大正12(1923)年9月1日に発生した関東大震災で被災しました。火災は無かったものの、本堂は大きく前に傾き倒壊寸前、境内は地盤沈下で湿地化したといいます。

元々この地域は水分豊富な農村地帯であった場所でした。徳川家康が江戸へ入府した際に土地を確保するために低湿地に埋め立てた改良された地域です。震災後は木母寺だけでなく周辺も地盤沈下が問題になっており、境内の石碑もその重みで沈み埋もれるなどして修復が必要だったのかもしれません。

震災から十数年が経過しているこの時期の「復活」が震災復興のことかは明確に書かれていません。ですが、明治22年の三遊塚建立から令和2年の五代目圓楽一門会で始めた追善供養までの間にも三遊塚に落語家が集まる追善供養の機会があったことを知らせる記事です。

 

偶然ですが、今日は日曜日でNHKラジオの『小痴楽の楽屋ぞめき』放送日でした。8月は戦後80年ということで禁煙落語のはなし塚についての話題。4月のアンコール放送で舞台『はなし塚』に出演された春風亭昇太師匠と柳家喬太郎師匠のお話も興味深いもので、はなし塚は戦争にまつわる複雑な想いが入り混じる印象がありました。建てた人達が後世に伝えたかった想いは単純ではないのかもしれません。

今回紹介した三遊塚の復活追善供養ははなし塚が建てられた昭和16年10月の5年以上前の出来事です。震災後で戦前ではありつつも、この昭和11年は2月26日に官邸や警視庁が襲撃を受け大臣らが暗殺され(二・二六事件)翌日から7月18日まで東京市戒厳令が布告され、情勢不安に陥った時期でした。

落語や演芸にまつわる塚(石碑)はいくつかありますが、その時代の落語家達の想いを形にする、先人が建てた塚の前に再集結することで気を晴らしたり気を揃えたりする場所として塚(石碑)が機能していたのかもしれません。

 

(70年以上経過した新聞記事ですが紹介掲載については東京新聞へ事前確認を行いました)

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明治22年4月12日 絵入朝野新聞より「三遊塚」

三遊塚を作った石工の話

前回は三遊塚の大施餓鬼が行われた6月30日当日の様子を伝えた新聞記事を紹介しましたが、今回はそれより前の記事を紹介します。明治22年4月12日に絵入朝野新聞に掲載されたものです。

◯三遊塚

落語家の三遊連では連長圓朝が発起をしてかねて三遊塚と云えるを建設する計画(もくろみ)にて故山岡鉄舟子に依頼し揮毫されしを向島の石工亀年方にて工事中なるが近々出来(しゅったい)次第長命寺内へ建設する準備中(したくちゅう)であると

 

引用:明治22年4月12日金曜日 絵入朝野新聞 三頁
注:送り仮名、旧字、片仮名などの読みにくいものは現代様式に一部修正

実はこの記事は倉田喜弘 編『明治の演芸 4』 (明治20年明治22年)で存在を知り、紙面を確認しました。記事には写真はありません。

『明治の演芸 4』は国立劇場調査養成部芸能調査室から1983年に出版されたもので、国立国会図書館デジタルコレクションで参照することもできます。

“出来次第長命寺内へ建設する準備中であると” とあり「長命寺内へ建設する準備中」という記述でますます「なぜ木母寺に三遊塚が建てられたのだろう」という疑問が深まります。

 

歴史散策がお好きな方ならご存知かもしれませんが、長命寺には松尾芭蕉の句碑や蜀山人大田南畝)、十返舎一九 などの碑が多く残されています。長命寺だけでなく木母寺周辺の寺社には石碑は珍しくありません。この記事の通り、4月に長命寺に建てる予定だったとしたら?それとも長命寺に建てるというのはなにかの行き違いだったのか?木母寺とのご縁を確かめたいところです。

この記事にある「向島の石工亀年」についても確かめてみました。一昨年撮影した三遊塚の写真にも亀年の名前を見つけました。

角度が悪く読み辛いですが、背面の左下に「宮亀年」とあります。
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明治23年に出版された職業案内を見てみると、三囲神社や長命寺がある須崎村、今の墨田区向島2丁目か5丁目あたりの石工で碑銘を得意とした彫刻師であることがわかります。

書体を失せざる長せり 宮亀年 本所區須崎村八十三番地

三三文房 編『東京百事便』,三三文房,1890. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991721 (参照 2025-08-09)

本所區向島 御碑銘彫刻師 宮亀年

上原東一郎 編『東京買物独案内 : 商人名家』,上原東一郎,明23.7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/803720 (参照 2025-08-09)

「宮亀年」は江戸から明治にかけて四代続いた碑文専門の石工の名で、向島の宮亀年は明治時代に活躍した人物のようです。谷中・全生庵の鐘楼前に建つ「山岡鉄舟居士之賛」は勝海舟が碑文を作り、揮毫を明治三筆の一人中林梧竹が、そして宮亀年が彫ったものなのだとか。先日全生庵へ行った際に実物を改めて見てきました。

全生庵山岡鉄舟居士之賛」 石碑の左下に宮亀年鐫(鐫は彫るの意)とありました

小寺芳次郎 著『中林梧竹翁思出記』によれば、中林梧竹は一時期向島の宮亀年の家に仮住まいした時期があり、著者によれば江戸っ子で面白い人だったといいます。2020年に出版された嘉津山清 著『御碑銘彫刻師 宮亀年』では274基もの宮亀年の仕事を一覧に集め、人物や交流についても書かれているようなので三遊塚や圓朝に関わることが書かれていないか読んでみたいと思っています。

石碑を写す拓本の妙技│41号 和紙の表情:機関誌『水の文化』│ミツカン 水の文化センター

三遊塚から話が脱線してしまいましたが、この記事については「長命寺へ建設する準備中」が気になるのでもう少し追ってみたいと思います。

 

三遊塚の「石」の話

石工の宮亀年の記事を知った頃に国立国会図書館のデジタルコレクションで偶然ヒットした本がありました。明治38年に出版された巨智部忠承 著『戦勝国少年公園の友 上編』です。

巨智部忠承 著『戦勝国少年公園の友』上編,巨智部忠承,明38.7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/832005 (参照 2025-08-09)

日露戦争で勝利を手にした直後の出版物です。今後ますます必要となる欧米に劣らぬ実践的知識を教育するべく作られたようです。日比谷公園をはじめとした公園を「実践の小学校」として見立て、公園に散策へ出掛け、園内で見つけた石について皆で会話している調子で書かれています。地質・鉱山・建築などに関心のある未来の国を担う少年達に向け石にも関心と知識を持ってもらおうという内容ですが、小学校向けとは思えない情報量です。

dl.ndl.go.jp

三遊塚は根府川の巨石ですが、此の彫刻(ほり)を注視(きつけ)なければなりませぬ、大文字のは小穴のあるいしめに扣(たた)く法を示し、小文字のは磨きになって居ます、何故なれば年月を経た後には、必定(きっと)汚れて苔蘚(こけ)などが生える場合(おり)には、小文字の方は割合に不鮮明(ぼんやり)になり易いから、之を防ぐ為めに水排(はぢ)きを、善くしてあるのでしょう

三遊塚の「石に関する情報」が見つかるとは驚きましたが、石工の話とほぼ同時に見つけたのは不思議です。

根府川東海道線小田原駅から西へ二つ先ですが、三遊塚が建立された明治22年にはまだ駅はありませんでした。運ぶにはさぞ大変だろうと思いましたが、根府川の石は昔から碑石や庭園用材として用いられていたのだそうで、近郊の小田原から熱海伊豆方面は江戸城の石垣の採石も行われていた地域なので運搬方法も確立していたのでしょう。

根府川石:小田原デジタルアーカイブ「小田原写真館」 | 小田原市

石を選んだのが誰かは不明ですが、石工の宮亀年も地方へ石を選びに出ており、圓朝自身も伊豆や箱根方面へは好きでよく出かけていたそうです。どちらの可能性もありそうですが、茶道や作庭などにも見識があったという圓朝なら旅先で探していたのではと思えます。

 

明治22年7月2日 やまと新聞より「三遊塚の供養」

向島 木母寺に建立された三遊塚

明治22年三遊亭圓朝が建立した「三遊塚」は現在も墨田区の木母寺にあります。2020年から五代目圓楽一門会で追善供養を始められ、木母寺で落語会が行われるようになり「三遊塚」の歴史をもっと知りたくなり深掘り中。

今回は明治22年6月30日の三遊塚が建立され大施餓鬼が行われた当日の様子を伝えた記事を紹介します。

 

引用:『円朝全集』巻の十二,春陽堂,昭和2. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1882523/1/268 (参照 2024-10-22)

 

永井啓夫氏の『新版 三遊亭圓朝』によれば、この日の様子は”初代円生、二代圓生追善の大施餓鬼が行われ、そのあと、門下四十三名と円朝が雪月花にちなんだ小噺を一席ずつ口演し、参会者には酒食を供した。大看板円朝と 人気のある直門総出演の行事は各界の名士をはじめ、大勢の参会者を集めて盛大をきわめた。”と書かれています。

三遊派一門の口演は『圓朝全集 巻の十二』に「雪月花一題ばなし」(外題・記念のいしぶみ)として収められており、上の「三遊亭圓朝翁 木母寺内三遊墳ヲ建ル図」の写真もその中にある一枚です。

dl.ndl.go.jp

当日の様子を伝える新聞記事は圓朝の口演速記を掲載していたやまと新聞の中に見つけました。明治22年7月2日に掲載されたものです。

◯三遊塚の供養

一作三十日はかねてより前号に記せし圓朝子(氏)が三遊塚大施餓鬼の当日なり 降りみふらずみ定めなきという五月雨も此の日は朝より天気良くもっとも日本橋神田辺は一時余程降雨ありし由ながら隅田川辺は唯だらだらという通り雨に過ぎず此の日三遊塚の近傍には高張提灯数十張を建て本堂の正面には府下の寄席より寄付せし幔幕を張り門人一統は白に藍紋の帷子袴(かたびらはかま)を着し午前十一時頃より拾有余名の導師本堂に参列して経を読み参詣の案内を受けたる人は圓朝子が別懇の人のみにて平生愛顧を蒙むる客筋へは更に案内をせざりしとは一見識というべし 如何さま参詣の人々は書家 高橋泥舟氏を始め有名の画工 柴田是真翁 河竹黙阿弥 仮名垣魯文 花柳壽輔 清元お葉の諸子 市川小團次(子が縁故の人の由)尾上菊五郎は病気のゆえを以って幸蔵を代理として参詣をなさしめ其の余は子が親類朋友 無慮五六百名なり 柳派と唱ふる落語連中とは何か呉越の隔てある如くに想像為す者あれど末派に至りてはしらず重立し所には毫も然ることなきと見え柳派の連中へも招待書を送り 志ん生 玉輔 柳櫻 などは早くより来たりて圓朝子が志しの篤きを賞し居りたり 唯 燕枝 柳枝 の見えざりしは定めし拠無き差支えありての事ならん さて数百名の参詣人丁重なる料理敷き菓子を出して饗応し此の事終わりて門人百余名の一題咄しを弁じ最後に圓朝子自ら高座に登りて健碑の理由を述べ 尚雪月花ちょう(という)三つの題を例の巧弁にて咄したるは面白き事なりし そもそも立川焉馬以来落語家にして圓朝の如き門人百余名に及び貴紳の招き絶える事なく出勤の寄席はいつも大入ならざるはなし実に前後其の人なしというも不可無からん

注:送り仮名、旧字、片仮名などの読みにくいものは現代様式に一部修正しています
引用:明治22年7月2日火曜日 やまと新聞 二頁

この記事には写真はありませんでしたが、内容を読むと上の「三遊亭圓朝翁 木母寺内三遊墳ヲ建ル図」のことがより詳しくわかってきます。

梅雨の時期でこの日は日本橋神田辺りは一時かなり雨が降ったものの隅田川辺りは通り雨があったものの天気には恵まれた様子。

写真では三遊塚の傍に傘付きの高張提灯が数張飾られ、左奥の本堂には高崎扇の大きな紋が入った幔幕が張られているのがわかります。幔幕は寄席から贈られたものでしょうか。高張提灯の数は記事にある通りならばもっと多く境内に飾られ、大勢の来場客を迎える幔幕も広く張られていたことでしょう。

一門の揃いの衣装は白に藍紋の帷子袴(かたびらはかま)。上の着物と下の袴とも揃いという意味かはちょっと不明ですが、少なくとも着物は白に藍紋の揃いのようです。

大施餓鬼は午前十一時から始まり十名以上の僧侶による読経、来場客は圓朝の別懇といいますからとくに親しいご縁のある方達で、「平生愛顧を蒙むる客筋へは更に案内をせざりし」といいますから普段からの御贔屓筋には特に丁寧に案内をしたということでしょうか。

高橋泥舟は言わずと知れた幕末の三舟の一人。三遊塚 背面の「為先師三遊亭圓生翁追福建之 明治廿二年三月二十一日 三遊亭圓朝並門人中」の書は氏のもの。前年の七月に他界し圓朝が師と仰いだ山岡鉄舟とは義理の兄弟にあたります。

漆工と絵画で海外にも評価され明治天皇の御用を務め初代帝室技芸員の一人にも任命された柴田是真、歌舞伎の名作を多く生んだ河竹黙阿弥、戯作者で複数の新聞も創刊したジャーナリストでもあった仮名垣魯文、 日本舞踊花柳流の初世家元 花柳壽輔、清元の名手といわれた清元お葉、歌舞伎役者では尾上菊五郎の代理で尾上幸蔵(二代目)や市川小團次の名前が見えます。各界から現代にも名が伝わる人物が多く集まったことがわかります。

落語界からは志ん生 玉輔 柳櫻 などは早くからやって褒め称えていたとあります。反対に燕枝 柳枝といった人達はあえて顔をださなかったとうことのようです。とはいえ” 末派に至りてはしらず重立し所には毫も然ることなきと見え柳派の連中へも招待書を送り”とあるので、三遊派柳派の仲が悪いなどという噂は末端でされるもので主立った人達同士は関係なくきちんと招待状を送っていたということがわかります。

三遊派」「柳派」の間で仲が良くないのではないかと思う人がいたようですね。昔も今も集団同士となると対立関係を期待する噂話が明治時代にもあったということでしょう。

参加したのはその他の親類朋友を合わせてざっと500人~600人とあります。それだけの数の人達を木母寺に集めて一門でもてなした、というのですから、それはそれは盛大だったことでしょう。今なら真打披露のパーティーで聞く規模ですが、ホテルの宴会場はないですから、どこで行われたのでしょうか。境内にしても、周辺の料亭で催すにしても相当の規模です。マイクやスピーカーといった拡声器は登場していない時代で一門揃って小噺の披露までしています。現代とは違う環境なのでどんな形で行われたのか気になります。

それにしても記事にもある通り、立川焉馬以来の江戸の落語家に圓朝のように弟子も多く育て、身分の高い人達からも多く招かれ、寄席に出ればいつも大入という人はなかなか出ないことでしょう。今でいうところの「唯一無二」の存在だったことは当時の記事からも窺い知れます。

17歳で一門を盛り立てると誓い有言実行した圓朝。江戸が明治の東京になって寄席にも芸人にも規制や制約や変化の波が押し寄せる中、三遊塚を建立する51歳までの30数年の間に自身の落語と三遊亭の一門を大きく育て初心を貫徹したと言えます。追善とともに当時の一門を初代と二代目二人の圓生に見て欲しいと願ったのが「三遊塚」なのだと感じます。

圓朝のエピソードには同門の人達だけでなく、困ったりひどい目にあった落語家の味方をしたというエピソードもいくつも残っています。その圓朝なら、三遊塚に大願成就の証、初代二代目圓生の供養の他に、未来の三遊派や落語界への想いも込めているように思えてきます。

気になる一文

  “ かねてより前号に記せし圓朝子(氏)が三遊塚大施餓鬼 ” 

この記事の始めにある「かねてより前号に記せし」の一文が最初から気になって居ます。

そう、この記事には多分前段があるのです。そしてその記事はまだ見つけていません。

圓朝と縁が深いやまと新聞。大施餓鬼の記事もかなり興味深い内容でしたが、まだこれから発見がありそうです。

 

三遊亭圓朝が建立した「三遊塚」の新聞記事

8月は三遊亭圓朝の季節?

8月11日は幕末から明治に活躍した三遊亭圓朝の命日で「圓朝忌」とも呼ばれます。

三遊亭圓朝は落語は元より歌舞伎でも上演され続ける「怪談牡丹燈籠」「真景累ヶ淵」「文七元結」などの原作者としても広く知られており、菩提寺の谷中・全生庵では毎年8月1日から31日まで圓朝が蒐集した幽霊画が展示公開されています。8月は圓朝忌を中心に怪談噺をはじめとした圓朝物(圓朝が作った落語)も寄席や落語会で数多く演じられます。

と、いうわけで8月はどこか「圓朝の季節」です。

 

 

昨日も両国寄席で「大仏餅」を聴いてきました。兼好師匠目当てで出かけましたが、大いに笑った後に圓朝物をじっくり聞くのも寄席の楽しみだなとしみじみ。

「大仏餅」は主任の楽春師匠のネタ出し。仏教と落語の始まりの縁をマクラからたっぷりに「大仏餅」を聴くと、圓朝師匠も浮かぶし、五代目の圓楽師匠も浮かんできました。お寺に縁がある師匠だからでしょうが、落語のどこかに教えが織り込まれているのかもしれません。

見つけたことを誰かに言いたい!?

仲入りで落語仲間のAさんと個人的にしている自由研究の話をしている時、「調べていることを話す相手がわからない」「圓朝を研究している人は故人しか知らない」と口にしていました。

落語を聴くのが好きなのと、落語に関係していても気になることを調べる仲間は別物で面白がってくれる仲間が欲しいと思っているんだなと気づきました。頭ではわかっていても口に出すまで腑に落ちてないものです。

いざ口に出してみると「見つけたことを誰かに言いたい!」ということみたい。でも「誰に話せばいいかわからない」「知られたことなのか、知られていないのか確かめたい」のが本心で、できることなら興味がある人に伝わって欲しい。

それならまず出してみたら!?と自問自答するも、ブログに書こうにも材料がまとまらない。調べ物は探し物だから一歩一歩がつまづきながら進むので見つけた!があってもまとめられない。予定通り順序通りの発見はないわけで、書いたところで誰が読むの?と途中で放り投げ、いつまでたっても書けない。勝手に調べて勝手に弱音(笑)

そこで、まとめるのをやめて、8月は「圓朝の季節」として圓朝明治22年に建立した「三遊塚」に関連する新聞記事について紹介してみようと思います。今回は紹介前のさわりです。

 

新聞記事で調べると決めたものの

新聞記事に絞った理由は単純で、知りたいことが書籍では見つからなかったから。読書量が足りない自覚はありますが、今は以前から活用している国立国会図書館デジタルアーカイブでの検索などの補う術もあります。どの書籍に欲しい情報が書かれているかを見つけることは昔に比べてかなり効率化できるようになりました。自宅に居ながらにして、場合によっては移動しながらでも探す作業はできます。昔を知るものとしては本当にすごいことです。

調べたい書籍や資料を絞り込んだあとは実際に閲覧して確かめる作業です。一部は自宅で閲覧できるものもありますが、図書館へ出向く必要があるものが多くなります。国立国会図書館、東京都立図書館、国立劇場の図書閲覧室、品川区立の図書館などへも行きます。これも昔に比べて見つけやすくなりましたが、古い書籍は所蔵している場所を探すのも作業のひとつかもしれません。

そうやって足を運んで調べていっても、現代的な方法で効率的に情報を取り出して調べようとすると、どうしても先人が書かれた書籍で調べることになります。そうなると著者が参考にした資料の原文すべてを1冊の書籍に盛り込めるはずもなく、著者の推測で書かれたものなのか、資料を元にまとめたことなのか判然としない部分も出てきます。自分が知りたいこととをピンポイントに書かれていることもなかなかありません。そこで、更に調べて行こうとすると新聞記事に至るのです。

倉田喜弘氏は『明治の演芸』(1~4巻)で膨大な新聞記事の情報を取りまとめられています。序文で圓朝などの全集まで出る芸人と生前の記録に乏しい伯円では評価まで偏りが出ている可能性があり、そういった「一芸人の評価から芸能そのものの意義を問い直せる有力な手段」として新聞記事を上げていらっしゃいます。

現代はオールドメディアと呼ばれてしまう新聞。記者会見などで見る質問の様子などを見ると必ずしも有効な手段とは思えないところもあるものの、その時代に起こったこと、行われたことを知るのには蓄積された強力な資料です。

『明治の演芸』は膨大な新聞記事の中から演芸関連の見出しを抜き出してまとめられています。現代ならキーワード検索さえできます。とはいうものの、明治以降発行された全紙全期間を網羅されているわけではありません。それを実現するのは相当難しく、芸能演芸全域となると気の遠くなる作業。明治時代の誌面がデジタル化され検索まで可能な一部全国紙もあるものの、現代でもそこまでできるのは本当に限られた一部というわけで、いまだに新聞記事を調べるとなったら目で探していくしかないアナログ作業なのです。面倒極まりない作業でもあり、宝さがしでもあり。

知りたい欲求から「知りたいことを調べようと思ったら新聞を見るしかない」「世の中を知るためには新聞読まなくちゃいけねえ」という落語の『新聞記事』みたいなことになってしまいました。

 

三遊塚

 

引用:『円朝全集』巻の十二,春陽堂,昭和2. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1882523/1/268 (参照 2024-10-22)

 

 

「三遊塚」は墨田区の木母寺というお寺の境内にあり、三遊亭圓朝が初代と二代目の三遊亭圓生の供養と一門の繁栄を願って建てた石碑です。2020年から五代目圓楽一門会が毎年追善供養を行っています。現在では供養の際に落語会も行われています。

以前にも書いた通り、初参加した時に失礼ながら木母寺が現代的でやや殺風景に感じられました。石碑が連なるお寺らしくなく「なぜ木母寺に三遊塚が建てられたのだろう」という謎が生まれました。調べてみると木母寺にも明治から昭和までの数奇な運命の物語があることもわかりました。それも踏まえて三遊塚について知りたく調査開始。

 

永井啓夫氏の『新版 三遊亭圓朝』によれば、三遊塚建立について、明治22年6月30日に”初代円生、二代圓生追善の大施餓鬼が行われ、そのあと、門下四十三名と円朝が雪月花にちなんだ小噺を一席ずつ口演し、参会者には酒食を供した。(中略)その後、円朝は「記念のいしぶみ」という小冊子を作り、これを三遊塚建立記念として配布した。”とあり、円朝が他界した翌月の明治33年9月に出版され、後に『圓朝全集 巻の十二』に「雪月花一題ばなし」(外題・記念のいしぶみ)として収められています。

その中に十七歳の圓朝が誓った三遊派再興の想いと三遊塚を建てた次第は語られているものの、木母寺に建てることになった理由は掛かれていません。『新版 三遊亭圓朝』にも”各界の名士をはじめ、大勢の参会者を集めて盛大をきわめた。”とだけあり、当日は誰が来ていてどう盛大だったのか、その様子まではうかがい知ることはできません。

そこで最初に書いた通り新聞記事を調べることにしました。明治時代の新聞は主にマイクロフィルムなどで遺されており、閲覧できる図書館は限られているので、調べに行けること自体幸運です。けれども、明治時代に発行されていた新聞の知識が乏しく、手当り次第では途方もありません。読みづらい明治時代の誌面を手廻しの機械でマイクロフィルムを確認していく作業は短時間でも思いの外過酷な作業です。

ですからまず先人が残してくれた手がかりをあつめました。事前準備です。デジタルアーカイブがあるのは幸運な時代です。「三遊塚」「木母寺」を検索ワードにして関係しそうな情報を拾っていきます。名所案内などに名前が挙がっているだけということも多いので選別も作業の内。そしてネット上で調べるだけでは肝心な情報が不十分。事前予約が必要な場所にも足を運んで、貴重な資料も手に取って、絞り込めるものは日付を絞って調べました。

新聞記事で見つけた「三遊塚」

書くつもりがなかった長い前置きをまた書いてしまいました。新聞記事を見つける作業は楽しくも呼吸を忘れて目が閉じてしまいそうな「逆大仏餅」な地道な作業なのです。勝手にやってるのに愚痴です(笑)なので見つけた記事のお話は簡潔に終わりたいと思います。

 

新聞で紹介された「三遊塚」の話題は、3つの時期で見つけることが出来ました。

 

まず、三遊塚が建立された明治22(1889)年。上に紹介した6月30日の大施餓鬼の日の様子が書かれた記事と、その前の4月に三遊塚を作った石工職人を取材した記事。

明治22年7月2日 やまと新聞より「三遊塚の供養」 - 直子の部屋

明治22年4月12日 絵入朝野新聞より「三遊塚」 - 直子の部屋

 

次に昭和11(1936)年に関東大震災後に荒廃していた三遊塚を復興させたという記事。

昭和11年4月22日 國民新聞「三遊塚復活 きのふ追善供養」 - 直子の部屋

昭和11年4月22日 報知新聞「菰かぶり据え三遊塚復興式」 - 直子の部屋

 

そして昭和45年(1970)年3月に戦後周辺が荒れ埋もれていた三遊塚を地元の人達の協力で修復が行われ、盛大な法要が落語家達により行われたというもの。

昭和45年3月21日の三遊塚法要と当時の木母寺 - 直子の部屋

私が調査の基盤としていた『新版 三遊亭圓朝』を書かれた永井啓夫氏が昭和45年(1970)年に出版された『圓朝考文集 第二』の中で「三遊塚が82年ぶりに脚光を浴びた」とされているので、当時昭和11年の出来事は圓朝に関して研究していた人にも知られていなかったのかもしれません。

明治22年大日本帝国憲法が発布された年。昭和11年の復興式は2.26事件が起こった直後で翌年は日中戦争が勃発。昭和45年は今開催されている大阪万博の前の万博が始まった直後。戦後の復興と経済成長期の絶頂期といえる時期でした。五代目圓楽一門会で追善供養を始めた2020年はコロナ禍に劇場も、そしてついに寄席も止まった年。大きな出来事はその限りではありませんが、数十年ごとに三遊塚が思い出され「今やらなくては」と動いた人達がいたことが見えてきました。

情報を探し出す方法が増えた今の時代だから見つけられた新聞記事で、三遊塚での出来事を紹介していけたらと思います。

明治10年 西南戦争の頃の圓朝

近頃つい見てしまうのが明治時代を取り上げた番組。
三遊亭圓朝の人となりに興味が湧いて以来アンテナが立ってしまった。

坂の上の雲」は関心がある時期の出来事を追う内容で見ていたら若い頃の柳家喬太郎師匠や古今亭文菊師匠が出ていて驚いた。初回放送当時は知識も関心もなかったのに今間があっているのが面白い。

配信で探して視聴できるようになってより情報を集められるようになった。
NHKはニュース映像の一部をAIの自動音声が読み上げたり、過去の放送を活用している。昔から新しい技術を開発導入しているけれど、今後の人手不足を見越しての取り組みなのだろうが、個人的には探して視聴できるのはラッキー。

「歴史探偵」は以前から好きな番組。放送中の大河ドラマの時代を取り上げたりする連動性がうれしい。

昨日(11/13)の放送は「明治維新 新政府の挑戦」だった。
明治維新で新政府が出来た後、廃藩置県廃刀令が行われるまでの間には政府がありつつ藩も全国に存在していたし、西南戦争があった。武士だった人達がどう切り替えていったのかは案外に知らなかったし、時代の流れにのるかそるかが事例として見える。

今年創立150年だとテレ朝の「相棒」で知った警察組織も、国家を守る大儀と武士の再雇用先となったと聞いて納得しながら、廃刀令後も刀を持てた人達と思うと現代では物騒に思えた。それから、武家の出で落語家や幇間太鼓持ち)になった人達がいた時代でもあったと去年の自由研究を思い出した。武士もその家族も身分が変わり、生き抜くために捨てたものもあれば、ある種自由を得る機会に揺れた時代だったように思える。

明治維新 新政府の挑戦 - 歴史探偵 - NHK

www.nhk.jp

去年の自由研究。武士から幇間になったのに上野彰義隊に参加した松廼家露八も思い出す。

entsunagi705.hatenablog.com

数日前に同じ番組の「伊藤博文」の回を配信で見たところだったので、圓朝と交流があったといわれる伊藤博文井上馨が政府の中心人物としてもがいていた時代がほんの少しリアルに感じられる。政治上の史実を知る程に圓朝とのつながりにも興味が湧く。

興味があって調べた時期の背景がわかると、出来事の捉え方が変わってくる。端的な情報だけでも見えることはあるけれど、何度も近くて違う情報に触れると、色を塗り重ねるように景色が見えてくるのが楽しい。

手元にある圓朝本で西南戦争廃藩置県の頃の圓朝をもういちど辿ってみる。

永井啓夫 著 新版 三遊亭円朝 新装版 (青蛙選書 36)

三遊亭円朝 新装版 (青蛙選書 36)

明治10年2月8日に鹿児島私学校の生徒が県庁を襲撃した。西郷隆盛を盟主として起こった西南戦争西南の役)の始まりだ。寄席もその影響か2月10日には営業時間の規制を受けている。

テレビや教科書で見ると一瞬の出来事で政府が勝った印象を受けるが、現代は他国で戦争がある時代なので、たとえ1年に満たないとしても、8ヶ月国内で戦争が続いて戦局が新聞が日刊になったばかりの時代に報じられていたとは安心できなかったのではなかろうか。

その頃の圓朝は禅に関心が向かっていた。「圓朝子の伝」によれば、明治10年頃には陸奥宗光渋沢栄一の贔屓を受けて度々彼らの邸宅へ訪問していており、陸奥の父で幕末の紀州藩士で国学者の伊達千広(伊達自得)と出会っている。

和歌や禅学に通じていた千広が催していた講義に参加するようになり、その後個人的に訪問して質問するなどしたようだ。伊達千広も圓朝との交流に思い入ったのか、床に伏して命わずかとなった千広は圓朝を呼び寄せ、横浜の万竹亭に出勤中だった圓朝はその知らせに驚いて駆けつけ、千広の最後を看取っている。明治10年5月18日のことだった。翌年の明治11(1878)年には陸奥宗光は政府転覆を企図した土佐立志社事件に関係して山形と宮城の監獄に5年禁固となっていた。伊達千広という存在も興味深い人だ。

伊達千広の講義の席で圓朝幕末の三舟と呼ばれた一人、高橋泥舟と出会っている。泥舟の義弟が山岡鉄舟で、この縁で圓朝と鉄舟が出会う。高橋泥舟は生家が元は旗本の山岡家で槍の自得院流(忍心流)の名家。次男という理由からか母方の高橋家を継いだ。幕末は徳川慶喜の側近として信頼が厚かった人物だ。

長男が早世した山岡家を継いだのが妹の英子の娘婿で門人の小野鉄太郎、後の山岡鉄舟明治10年当時、鉄舟は明治天皇の侍従の立場でもあった。その後の明治16年に、鉄舟は明治維新の際国事に殉じた人々の菩提を弔うために全生庵を建立する。

明治も10年過ぎたとはいえ、まだ国家としては問題山積の時期。江戸幕府の終焉を直視し、時代を大きく動かした江戸無血開城の立役者達と圓朝は繋がり、明治維新後も西南戦争の苦難を経て御一新に向き合う人達を目の当たりにしたという訳だ。

明治維新後も旧藩士・出淵家の血を意識していた圓朝。幼少期に寺で過ごしていたから禅に触れていたともいわれる。芸人の一面もありながら一門をとりまとめる頭取の位置にいた圓朝が学びたい師となるリーダー達に囲まれた時期に見える。圓朝不惑、40歳になる頃のことだった。

山岡鉄舟との関わりに対して、落語家としてではなく友人として圓朝と親しく付き合ったといわれる井上馨との交流は思いのほか情報が少ない。渋沢栄一との関わりを考えるとすでに出会っていたはずだが、出会いがいつごろの事かはわからなかった。

日本の伝統芸能にも造詣深く、茶道に通じ、古美術コレクターでもあった一方、鹿鳴館を建てる際にも関わるなど、文化交流は和洋二刀流、感情的な一面もありながら人の起用に長けて情に厚い井上馨圓朝との共通点も多く思えるし、相対するところが良い相性だったのかと思われるところもあり。ミステリアスなだけに興味が湧く。

圓朝の逸話で少し珍しいものを見つけた。明治時代の日本陸軍軍医で草創期の軍医制度を確立した子爵で茶人の石黒忠悳(いしぐろただのり)のもので、圓朝が話をしたい人物に出会うと積極的に出かけて行っている印象を受ける。前に書いた伊達千広の話にも通じる。

私は一体芸人といわれた社会の人々とは交渉のない人間でしたが、この圓朝君とは最初松本順先生の処で会ったのです。その後間もなくこの人が、手拭と藤村の羊羹か何かをみやげに持って私を訪ねてきました。座敷へ通して会うと、私の事を「御ぜん(御前)」と呼びますから私は「圓朝さん、私を御ぜんなどと呼ぶなら、これきりおいではお断りだ、落語家なり芸人なりの圓朝と、この石黒を殿様としての交際はまっぴらだ、芸人ではなく出淵さんと、石黒の交際なら、喜んでする。」といふと、それは誠に有難い事と喜んだので、初来の客だから茶を点ててすすめ、一時間も話しました。その後種々の会で人を招いたり招かれたりした折にも度々逢うて話す事があり、又春秋には必ず来訪して呉れました。

引用元:石黒忠悳 著『懐舊九十年』,博文館,1936.2. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1884883/1/221 (参照 2024-11-14)

積極的で勉強熱心な圓朝はこんな調子で話したいと思うと懐へ飛び込むタイプだったのだろうか。松本順先生とは初代陸軍軍医総監で男爵となった人物だ。

圓朝は泥舟から槍術、鉄舟から剣術の教えを受けたという説もある。文武両道で勉強好き、茶道華道書道もたしなみ庭に詳しい。これだけの人達に囲まれていたらさもあらんと思いつつ、冷静沈着なイメージより後年も好奇心旺盛を隠れ持つ印象が強くなっていく。石黒の逸話は後年と思われるが、明治10年圓朝の意識が変わる時期だったに違いない。