8月から三遊亭圓朝が木母寺に建立した「三遊塚」の新聞記事をいくつか紹介しました。実は昭和にもう1度三遊塚で法要が行われた記録があります。
三遊塚について新聞記事を調べてみたいと思ったきっかけがこの出来事でした。残念ながら今回は記事の本文や写真は紹介できませんが、きっかけからの経緯を書いてみたいと思います。
- きっかけはデジタルアーカイブのローラー検索作戦
- もしかして圓生師匠が関係しているのかも
- 日付を特定したい
- 図書館を渡り歩く
- ようやく日付を特定
- 新聞社のデータベースで
- 昭和45年頃の木母寺は
- 昭和40年代初めの様子も
- まとめ
きっかけはデジタルアーカイブのローラー検索作戦
三遊塚や木母寺に興味を持ったのは五代目圓楽一門会主催の三遊塚追善供養に参加してから。ハマったばかりの国立国会図書館のデジタルコレクション(所蔵資料をパソコンやスマートフォンで閲覧できるデジタルアーカイブ)で手始めに「三遊塚」と「木母寺」を検索してみました。本文から抽出された一覧に出てきた書籍を片っ端から見る中で気になる一文を発見します。
防災拠点の梅若塚
“同寺の境内でもある公園内には、例によって碑が多い。昔は付近に有名な料理屋もあり、風流人の遊び場だったなごりでもある。(中略)「三遊塚」は落語にゆかりの深いもので、約八十年前、名人といわれた三遊亭円朝が中心になって建てた。震災や戦災で一時地中に埋まって荒れ果てていたが、最近地元の人たちの協力で修復され、落語協会の“後輩”たちによる謝恩法要が盛大に行われた。”
引用:羽鳥昇兵 著『東京歌舞伎散歩』,読売新聞社,1971. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9640208/1/115 (参照 2025-09-06) ※閲覧にはログインが必要です
もしかして圓生師匠が関係しているのかも
『東京歌舞伎散歩』は昭和46(1971)年5月に出版されたものでした。「最近」とはいつのことか。近い頃なら六代目の三遊亭圓生師匠が落語協会の会長だった時期です。地元の方の協力で修復されたことが圓生師匠の耳に入れば、落語家でなにかしよう、となるのは想像がつきます。
仮に前の年ぐらいの出来事なら、六代目の円楽師匠が入門した年。もしかしたら参加したかもしれない。2020年の三遊塚追善のニュースで羽織袴で並んでいた好楽師匠、圓橘師匠、鳳楽師匠もその追善供養を覚えていたのかもしれない、と思いました。
日付を特定したい
そうなってくるともっと詳しく知りたい。圓朝が木母寺に三遊塚を建てた理由もあまりよくわからないし、三遊塚建立当時の木母寺の状況も知る程謎ばかり。まとめられた情報も見当たらない。そこで建立された頃からこれまでの三遊塚に関する情報を拾い集めることにしました。昭和46年頃の謝恩法要が「いつ行われたのか」も見つけたいことのひとつとしました。
図書館を渡り歩く
気になったことを起点に自由研究し始めるスタイルなので、落語について、三遊亭圓朝について、三遊派について、歴史などの体系的知識は圧倒的に足りません。もっといえば他の伝統芸能や芸事、舞台に関しての知識もほとんどが経験からくるもの。活かせるものは興味を持って調べたことがあるか、裏方表方の仕事上必要で知った知識、そして客席で楽しみながら聴いたどこまで本当かわからない情報のみ。かといって研究者や評論家のような知識をつけてから、なんて考えたら途端にやる気が失せてしまうので、知りたいことを追う楽しい宝さがしとして調べる方法を考えました。
手始めに使ったデジタルアーカイブという道具は強力です。自宅にいながらにしてキーワードで資料を探し当てられる、書籍に書かれた情報を渡り歩けるのはすごいことです。活用できるところはこの方法を使いました。
けれどもアーカイブという意味でデジタルツールはまだ不完全。特に調べたい時代の情報はまだこれからの道具です。日進月歩で資料は増えていますがデジタル化された書籍・資料は限られており、家から閲覧できるものにも制限があります。
調べるべき資料のあたりを付け、実地で確認し、地道に資料を読んでいく、といった様に作業を組み合わせました。こういう作業は子供の頃から図書館でよくしていたし、社会に出てからリサーチする時にもしてきたことなので、興味があることに応用できるのは楽しい。
すでに落語や圓朝、石碑のことなどを調べている人が個人サイトやブログで共有してくれているインターネット上の情報だとか、書籍検索で得られる情報、家で読めるもの、行ける図書館の棚から取って読めるもの、マイクロフィルムを専用機械で閲覧して自力で見つける方法、新聞社のデータベースを併用する、などなど調べた方法は様々。行き詰ったら他の資料から探せないか、足を運んでいない場所に資料がないか、利用できるサービスがないか動いてみます。
調べることが明確になる程、国立国会図書館は強力な味方で、通える環境にいたことは幸運だと感じました。国立劇場の図書閲覧室も演芸資料は宝の山。この二つの図書館が至近距離なのは個人的に嬉しい。比較的利用方法が簡単で気軽に閲覧できる都立中央図書館も調べ物は抜きでも演芸関連書籍が楽しめます。
これまで紹介した三遊塚の新聞記事には、国立国会図書館のデジタルコレクションでほんの数文字の年表記載を手掛かりに見つけたものもありました。特に昭和11年の三遊塚の復活(復興)追善供養が行われていたことは予想外の発見でした。三遊塚を作った石工・宮亀年の記事も面白い発見でした。
ようやく日付を特定
三遊塚について調べていくと、既に紹介した通り、昭和11年の追善供養があったことが判明しました。でも昭和46年近くの「修復と落語協会の後輩たちによる謝恩法要」はいつの出来事かつかめませんでした。
そこで圓朝に関して調べる時に特に参考にした資料を思いかえして、ダメ元で『圓朝考文集』にヒントがないか見てみることにしました。この文集は昭和に圓朝を研究する人達が刊行会を作って昭和44(1969)年の第一巻から昭和49(1974)年の第六巻までは毎年、そして昭和52(1977)年の第七巻まで出されていたものです。この文集には藤浦富太郎氏(圓朝の遺品を受継いだ藤浦三周の子)も寄稿しており、別録として藤浦富太郎氏による『随録 三遊亭圓朝』『続随録 三遊亭圓朝』も発行されていました。企画された時期や関わっていた方々の顔ぶれにも期待ができました。(限定的に出版されたもののようで購入するには高価な古書ですが、国立劇場に蔵書があり、図書閲覧室で閲覧可能でした)
『圓朝考文集』の目次を第一巻から順に見ていくもそれらしい項目はなし。もう少し細かく見ていくと、第二巻の「圓朝研究・最近の話題」という項目に
“円朝によって向島木母寺に建立された「三遊塚」が本年三月二十一日、八十二年ぶりに脚光を浴び、現六代三遊亭円生氏らによって盛大な供養が営まれた”
と書かれていました。この2年ほど度々手にしている『新版 三遊亭圓朝』の著者 永井啓夫氏によるものでした。『圓朝考文集』第二巻が刊行されたのは昭和45(1970)年なので、予想した年だったことがほぼ確定できました。図書閲覧室で静かに歓喜(笑)
それでも「本年」をしつこく確認したいのと、「盛大な供養」の様子をさらに知りたく当時東京で発行されていた新聞を調べることにしました。
新聞社のデータベースで
東京の新聞記事を調べる。言うのは簡単ですが一紙ずつ見ていくのはなかなか忍耐が要る作業です。昭和45(1970)年に東京で発行されていた新聞といっても大手全国紙、地方紙、スポーツ紙と数もあり、それぞれ特色があります。何紙も購読する習慣はない上、近頃はネット版の記事を読むことがほとんど。演芸の記事が強い新聞社もすぐ思い浮かばず、どこから調べたらよいかまるでわかりませんでした。試しに見てみた大手全国紙には演芸関連の記事はまるで見つからず絶望からのスタートでした。趣味でよかった。
各紙記事の掲載順や文字や企画などの特徴もあります。1日で見つかるはずもなく、紙面を端から見ていく作業は目が慣れるまで毎回時間がかかり、頭と目の負担が大きい。調べたい癖は直らないので本気でアイケアを考えるようになりました。
偶然目に留まる記事から時代は読み取れるものの、選んだ何紙かの縮小版やマイクロフィルムでは昭和45(1970)年3月21日頃に三遊塚の供養を紹介した記事は見つかりません。
電子ジャーナル・データベース | NDLサーチ | 国立国会図書館
そこで「リサーチ・ナビ」で新聞を調べる他の方法を確認してみました。「リサーチ・ナビ」は国立国会図書館のサービスのひとつで、資料の調べ方案内です。調べてみたいけど何から手を付けたらいいかわからない、という人に代表的な資料や調べ方を教えてくれます。調べることに関心を持った人に全力応援してくれるので、案内にしては情報が膨大だったりしますが、とても整理されていて自己流でネット検索するより早く解決策が見つかることがあります。個人的なおススメはやはり「大衆演芸について調べる」です。
「リサーチ・ナビ」で試していない新聞の調べ方を確認すると、個人利用には少しハードルがある大手全国紙などの新聞記事データベースの検索サービスがありました。新聞社のこのサービスは国立国会図書館の利用登録があれば図書館館内でなら利用できます。
早速データベース検索を使ってみると、まだ調べていなかった毎日新聞 東京版に記事があることがわかりました。掲載内容もその場で確認できましたが、マイクロフィルムでも確認しました。掲載日は昭和45年3月22日。『圓朝考文集』にあった「盛大な法要」が昭和45年3月21日で間違いないことが確認できました。圓生師匠も列席していました。昭和の名人達の名前もありました。3月21日は初代圓生が亡くなった日ですが、この年のこの日はお彼岸の中日、つまり春分の日だったようです。
昭和45年頃の木母寺は
この年は3月15日から大阪で日本万国博覧会が開幕しました。現在行われている大阪万博のひとつ前の大阪万博ですね。三遊塚の法要が行われたのは、開幕1週間後のこと。新聞紙面にも万博にまつわる記事や広告が多くありました。日に日に来場者が増えて、今の万博の比にならない規模の混雑だったとか。
高度経済成長期の華やかな時期に思えますが、木母寺では大変な事態が起こっていたようです。
『木母寺誌』によれば、昭和43(1968)年秋ごろに東京都の防災拠点計画の第一号に木母寺や隅田川神社一帯を含む地域が第一候補地「白髭東地区」として挙がっていることがスクープ報道され、その計画案では「寺社の敷地は残らない内容」となっていたのだそう。
住職が知らない所で計画は進んでおり、当事者ではない人達の計画賛成・推進運動もある中、ようやく東京都と寺社の保存に向けて交渉を持てるまでになったのが昭和44年から45年頃のことだったとか。
その後も木母寺と隅田川神社の保存はできることになったものの、元の敷地を維持することはできず、同地区内での移転となるなど紆余曲折が昭和50年まで8年近くかかったと記録されています。今の木母寺へ行ったことがある方ならお察しのことかもしれませんが、都の防災拠点計画とは墨田区の防災団地「白鬚東アパート」の計画です。
三遊塚の修復がそのことと関わりがあったのかはわかりませんが、地域の名前も変えられ、寺社の場所も移されてしまう事態。地域の方も驚かれたでしょう。何かしなくては、と感じた地元の方もいたんではないかと想像します。盛大な法要は時期からして今の場所ではなく移転前の木母寺境内で行われたものと思われます。
明治の御一新で一度無くなってしまった木母寺が20年ぶりに復活した明治22年に三遊塚は建立されました。昭和45年に木母寺が再び消滅する危機にあったと考えると、移転してでも残った現在の地を江戸時代の浮世絵や明治のような風情が残っていない場所だなんて軽々しく言うことはできません。当時の住職のご尽力がなかったら、巨大な壁のような白鬚東アパートと入れ替わりに三遊塚も芸能に縁の深い梅若塚も50年以上前に消滅していたかもしれないのですから。
個人的な関心から調べたことでしたが、建立された当時もその後も節目に三遊塚に人が集まっていたことが知れてよかったです。そして木母寺のことはもっとその波乱万丈の歴史が知られてもいい気がします。
昭和40年代初めの様子も
新聞社が運営するデータベース検索には新聞記事の他に写真データベースもありました。毎日新聞が運営する「毎日フォトバンク」には昭和45年の法要より3年半前にあたる昭和42(1967)年12月に撮影された木母寺境内の写真が数枚あり、その中に三遊塚が写っているものもありました。
こちらも写真をここに掲載はできませんが、このデータベースは法人契約がなくても調べてみることはできるようです。
移転前の木母寺の面影が写真で記録されていたことは予想外。境内の様子も想像とは少し違い写真で見る限りは”一時地中に埋まって荒れ果てていた”程には見えませんが、建立当時ともまるで様子が違っています。
再び『木母寺誌』を見てみると、木母寺は昭和20(1945)年4月13日に本堂などが空襲で焼失、なんとか残った梅若堂も直後の15日に空爆で損傷を受け、復興にも困難を要した模様。
仮本堂が建ったのは昭和25(1950)年の12月、梅若堂は更に時を要し昭和27(1952)年5月のこと。そして1000坪近い境内は戦後になるとより激しく地盤沈下が起き、湿地化してたびたび水が出ていたのだとか。復興への障害になると思われた頃に墨田区で児童遊園建設が計画され、境内としての景観と役割に配慮する取り決めの上で協力し、境内は緑地化対策が取れたようです。
この話から考えて、昭和20年代に戦災で石碑が地中に埋もれてしまった時代があり、昭和30年代半ばから境内が緑地化されて児童公園となった様子が昭和42年の写真に残されてたと考えられます。緑地化が落ち着いた後、ようやく石碑が修復される番が来たとも言えますが、昭和43年秋にはもう防災拠点計画の一件で報道に巻き込まれています。
もし地盤沈下する土地のままだったら、東京都の防災拠点計画の第一号にはならなかった気もして、木母寺の数奇な運命を考えてしまいます。

現在の木母寺ご本堂(2024年撮影)
まとめ
タイトルに対して木母寺の話が長くなってしまいましたが、今回紹介した昭和45年の法要のお話で新聞記事で知った三遊塚のお話はひと区切りです。
三遊塚の建立からこれまでの136年を調べようとすると木母寺の歴史は欠かせませんでした。その間にあった追善供養という出来事を点で繋ぐと、調べただけでも木母寺も三遊塚も驚く変化の連続だったことがわかります。まだ知りたいことは今後もを調べつつ、わかりやすいまとめも作れたら(願望)と思います。

梅若念仏堂と三遊塚(2024年撮影)








