三遊塚を作った石工の話
前回は三遊塚の大施餓鬼が行われた6月30日当日の様子を伝えた新聞記事を紹介しましたが、今回はそれより前の記事を紹介します。明治22年4月12日に絵入朝野新聞に掲載されたものです。
◯三遊塚
落語家の三遊連では連長圓朝が発起をしてかねて三遊塚と云えるを建設する計画(もくろみ)にて故山岡鉄舟子に依頼し揮毫されしを向島の石工亀年方にて工事中なるが近々出来(しゅったい)次第長命寺内へ建設する準備中(したくちゅう)であると
引用:明治22年4月12日金曜日 絵入朝野新聞 三頁
注:送り仮名、旧字、片仮名などの読みにくいものは現代様式に一部修正
実はこの記事は倉田喜弘 編『明治の演芸 4』 (明治20年~明治22年)で存在を知り、紙面を確認しました。記事には写真はありません。
『明治の演芸 4』は国立劇場調査養成部芸能調査室から1983年に出版されたもので、国立国会図書館デジタルコレクションで参照することもできます。
“出来次第長命寺内へ建設する準備中であると” とあり「長命寺内へ建設する準備中」という記述でますます「なぜ木母寺に三遊塚が建てられたのだろう」という疑問が深まります。
歴史散策がお好きな方ならご存知かもしれませんが、長命寺には松尾芭蕉の句碑や蜀山人(大田南畝)、十返舎一九 などの碑が多く残されています。長命寺だけでなく木母寺周辺の寺社には石碑は珍しくありません。この記事の通り、4月に長命寺に建てる予定だったとしたら?それとも長命寺に建てるというのはなにかの行き違いだったのか?木母寺とのご縁を確かめたいところです。
この記事にある「向島の石工亀年」についても確かめてみました。一昨年撮影した三遊塚の写真にも亀年の名前を見つけました。


角度が悪く読み辛いですが、背面の左下に「宮亀年」とあります。
明治23年に出版された職業案内を見てみると、三囲神社や長命寺がある須崎村、今の墨田区向島2丁目か5丁目あたりの石工で碑銘を得意とした彫刻師であることがわかります。
書体を失せざる長せり 宮亀年 本所區須崎村八十三番地
三三文房 編『東京百事便』,三三文房,1890. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991721 (参照 2025-08-09)
本所區向島 御碑銘彫刻師 宮亀年
上原東一郎 編『東京買物独案内 : 商人名家』,上原東一郎,明23.7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/803720 (参照 2025-08-09)
「宮亀年」は江戸から明治にかけて四代続いた碑文専門の石工の名で、向島の宮亀年は明治時代に活躍した人物のようです。谷中・全生庵の鐘楼前に建つ「山岡鉄舟居士之賛」は勝海舟が碑文を作り、揮毫を明治三筆の一人中林梧竹が、そして宮亀年が彫ったものなのだとか。先日全生庵へ行った際に実物を改めて見てきました。


全生庵「山岡鉄舟居士之賛」 石碑の左下に宮亀年鐫(鐫は彫るの意)とありました
小寺芳次郎 著『中林梧竹翁思出記』によれば、中林梧竹は一時期向島の宮亀年の家に仮住まいした時期があり、著者によれば江戸っ子で面白い人だったといいます。2020年に出版された嘉津山清 著『御碑銘彫刻師 宮亀年』では274基もの宮亀年の仕事を一覧に集め、人物や交流についても書かれているようなので三遊塚や圓朝に関わることが書かれていないか読んでみたいと思っています。
石碑を写す拓本の妙技│41号 和紙の表情:機関誌『水の文化』│ミツカン 水の文化センター
三遊塚から話が脱線してしまいましたが、この記事については「長命寺へ建設する準備中」が気になるのでもう少し追ってみたいと思います。
三遊塚の「石」の話
石工の宮亀年の記事を知った頃に国立国会図書館のデジタルコレクションで偶然ヒットした本がありました。明治38年に出版された巨智部忠承 著『戦勝国少年公園の友 上編』です。
巨智部忠承 著『戦勝国少年公園の友』上編,巨智部忠承,明38.7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/832005 (参照 2025-08-09)
日露戦争で勝利を手にした直後の出版物です。今後ますます必要となる欧米に劣らぬ実践的知識を教育するべく作られたようです。日比谷公園をはじめとした公園を「実践の小学校」として見立て、公園に散策へ出掛け、園内で見つけた石について皆で会話している調子で書かれています。地質・鉱山・建築などに関心のある未来の国を担う少年達に向け石にも関心と知識を持ってもらおうという内容ですが、小学校向けとは思えない情報量です。
三遊塚は根府川の巨石ですが、此の彫刻(ほり)を注視(きつけ)なければなりませぬ、大文字のは小穴のあるいしめに扣(たた)く法を示し、小文字のは磨きになって居ます、何故なれば年月を経た後には、必定(きっと)汚れて苔蘚(こけ)などが生える場合(おり)には、小文字の方は割合に不鮮明(ぼんやり)になり易いから、之を防ぐ為めに水排(はぢ)きを、善くしてあるのでしょう
三遊塚の「石に関する情報」が見つかるとは驚きましたが、石工の話とほぼ同時に見つけたのは不思議です。
根府川は東海道線で小田原駅から西へ二つ先ですが、三遊塚が建立された明治22年にはまだ駅はありませんでした。運ぶにはさぞ大変だろうと思いましたが、根府川の石は昔から碑石や庭園用材として用いられていたのだそうで、近郊の小田原から熱海伊豆方面は江戸城の石垣の採石も行われていた地域なので運搬方法も確立していたのでしょう。
根府川石:小田原デジタルアーカイブ「小田原写真館」 | 小田原市
石を選んだのが誰かは不明ですが、石工の宮亀年も地方へ石を選びに出ており、圓朝自身も伊豆や箱根方面へは好きでよく出かけていたそうです。どちらの可能性もありそうですが、茶道や作庭などにも見識があったという圓朝なら旅先で探していたのではと思えます。